時習館

971 ~ 974
嘉永三年(一八五〇)大田原藩主大田原広清が藩士の子弟を教育し、有能な人材の養成をはかるために設立した学校で、校名を正式には「時習学校」という。
 教科内容は、主として皇、漢の両学を教授したようで、各藩校の教育内容は一般的に儒学を中心として文道を教えたが、武芸道場も併設していたものが多い。教科は漢文・歴史・習字・作文・礼法・算術等で、幕末になると、外国との関係から英語・西洋数学・航海術・西洋砲術・蘭医学等を課すところも多くあらわれているのである。
 時習館は戊辰の役に兵火にかかり焼失したが、翌明治二年藩主大田原勝清がこれを再興した。
 教師には教授として、藩士金枝健、助教に印南嵐・山田収を任用して子弟の教育にあたる。
 授業の日課は大体午前中とし、素読・質問・会読を行い、四と九の日の午後は輪講を、三の日の午後は詩文会を開き、二と七の日を休業としている。
 学校の雑経費は、一か年およそ米一五石余をあて、教師の俸給は、教授の上等は年米三石六斗、下等は米二石七斗。助教の上等は米一石八斗、下等は九斗を給している。
 明治四年(一八七一)廃藩置県とともに、藩学校時習館は閉鎖となる。
 
   学校
  城下ニ一校アリ時習学校ト称ス嘉永三年丙辰二月藩主大田原広清[出雲守]ノ創立スル所ロナリ、学科ハ皇漢ノ両学ヲ用エ以テ藩士ノ子弟ヲ教導ス。戊辰ノ役校舎悉ク兵燹ニ罹ル、其明年[卯明治二年己巳]藩主大田原勝清之ヲ再興ス。此時教授助教ノ両職ヲ置キ其俸米ノ額各々二等ニ分ツ教授ノ上等ハ一ケ年米三石六斗ヲ給シ下等ハ同二石七斗ヲ給ス。助教ノ上等ハ同一石八斗ヲ給シ下等ハ同九斗ヲ給ス。而シテ初メ明治二年十月以後金枝健以下共ニ藩士ヲ教授ト為シ[上等給ヲ与ウ]印南嵐[上等給]山田収[下等給]ヲ助教ト為ス。後チ[同年同月以後]健職ヲ辞ス因リテ印南嵐、田辺権ハ二名ヲ以テ之ニ代フ[共ニ下等給ヲ与ウ]。
 且ツ校内ノ雑費一ケ年凡ソ米十五石余又当時受業ヲ立ツル左ノ如シ

時習校教授時間概表
時間午前七時ヨリ同十時マデ同十時ヨリ正午十二時マデ四・九ノ日午後一時ヨリ三ノ日同上二・七ノ日
学科素読質問会読輪講詩文会休業

 後チ二年[即四年辛末十一月]廃県ノ際乃チ之ヲ閉ツ而シテ其校規教則等ノ書類散佚シテ今ダ徴ス可キナシ

(「栃木県史料八一」)

 時習館に関する資料が極めて少ないので校規、規則等の内容を明確に記すことはできないが、前記資料や「栃木県教育史」及び「柳村金枝先生碑」(大田原龍頭公園)等から、その概要をうかがうことができる。以下に記す。
 時習館の位置 当初は柳村の自宅を仮校舎として開き、後城内の御作事場(現 城山二丁目一四番八号付近)を教室にあてたが、戊辰の役に兵火にかかって焼失し、明治二年藩主勝清がこれを再興し、町内の寺院洞泉院に移る。
 教則については、本朝古典の六国史を主として、国史略・日本外史・大日本史等により皇学をたて、小学・近思録・孝経・四書・五経・周礼・礼儀・爾雅・春秋左氏伝・国語・史記・前、後漢書・戦国策・三国志・資治通鑑等により漢学、特に朱子学を採用した。西洋訳書等を用いたのは、幕末西洋文明の浸潤で、他の藩でも教授された内容である。
 学則のうち試験については藩主臨席のもとに行い、優劣により若干の賞与を授与する。
 入門の生徒は七五人で通学、自費である。
 束脩謝儀 束脩は自費をもって酒肴を教官に贈り、謝儀は年始及び五節句ごとに生徒一人金一銭ずつを、中元、歳暮に生徒一人二銭ずつを基準にして、教員に藩の積立金から生徒の人員に応じて下付した。経費は藩費による実費支給である。
 教師は館長に金枝柳村を任じ、教育の方針は文武の両道を兼修させて、士道の振興を期した。
 教授担当として文学には金枝柳村、印南嵐、書道には大田原圭斎、剣道に大田原数馬・福岡弁司、馬術に郡山政五郎、弓術は阿久津権六があたった。
 教官の数は、一等教授一名、二等教授二名、三等教授三名、四等教授一名の定めである。
 館長金枝柳村は、時習館を辞した後も門人たちに慕われ、明治十二年芳賀郡上延村に没したが、同十四年十月門人等相謀って「柳村金枝先生碑」を大田原龍頭公園内に建てる。
 台石に建碑幹事と刻して、印南嵐・若色良譲・阿久津脩斎・阿久津忠武・北条直諒の五人があり、
 門人と刻して、
  大田原徳盈 菊池武端 伊王野資正 権田等   田代荒次郎 菊地済安 相馬松斎  久利生松雄
  □□□□  羽柴重吉 渡辺渡   早川真英  高塩担   遅沢栄帰 大塩広太  星野半六
  藤田吉享  田辺権  神田貞   大田原保盈 滝田秀雄  渡辺寛  益子甚四郎 山田収
  大町澄   阿久津正 平野薫   津田政信  津田四郎  阿久津資生
 いずれも時習館ゆかりの人物であり、この地方の政治経済・教育・文化面で活躍し、それぞれに貢献したことがうかがえるのである。