大田原地方における寺子屋の様子についての詳細は分からないが、古老の話(伝承)や当時使用された教科書等から、あるいは明治以前に存在したと推定される寺子屋の資料などによって、その大要をうかがい今後の研究の手がかりとしたい。
寺子屋に入る子供は、庶民の子弟を主とし、寺子、あるいは筆子と呼ばれた。希望制による学習であったので、寺子屋の師匠の方針などによって、その様態はさまざまであったようである。入学の年齢はおよそ五、六歳から一四、五歳位の者が多く、寺入りといって初午の日に入学した者が多かったようである。寺入りのときは、教科書・学習用具・机などすべて自分持ちで、寺子屋へ運び込んで勉強したのである。男女比では、男がほとんどで男尊女卑の時代を表わしている。修業年限は四、五年位で終る者が大部分であったようである。
授業は朝から夕方までのものが多く、五節句や祭り・盆・正月は休みとなり、農村では、農繁期は休業となったものが多い。
寺子屋の教育方針は師匠の信念などをかかげて、時代の風潮からしつけが厳格であったようで、わがままは許されず、日常生活の礼儀作法まで指導の手をさしのべたようである。
例えば、寺子屋のきまりを守らなかったような場合には、机や学習用具の一切を背負わせて帰宅させ、親類や有力者を介して謝罪して許されたりしたほどであるという。
師匠への謝礼はいろいろであり、物品や金銭の場合もあり、節句や盆・暮・正月などに贈る習慣が多かったようである。
寺子屋の教師は師匠と呼ばれ僧侶・神官・医師・修験者・士族、浪人・代官・陣屋役・農民・商人・地主・名主・女師匠等いろいろな身分の人が教授したようである。
寺子屋では、どんな勉強をしたのだろうか、教科書について記してみる。まずもっとも学習したのが手習いであったようである。いろは四十八文字の習字本・数字・干支・方位・名頭・町、村名尽・国尽などの日用文字から消息往来・商売往来・都路往来・庭訓往来や童子教・千字文などで、片仮名・変体仮名も習ったようである。
これらは、師匠が手書きして寺子に与え、最初にいろはを習い次に漢字へすすみ、そして、往来物になってだんだんむずかしくなっていき、五日か七日に一度清書を提出し、返されるという学習であった。
寺子屋のお手本(小貫康夫氏蔵)
読みかたは、実語教や童子教が広く使用されていたようで、庭訓往来などの往来物から詩歌、中には大学・中庸・論語・孟子などの四書、小学・孝経・忠経や詩経・書経・易経・礼記・春秋の五経や史書などの素読を行うところもあった。
いずれも師匠が範読し、弟子が復唱して覚えていく方法であった。
算術は和算で、実生活に役立つような内容で、そろばんの練習であった。