当時の教科書

980 ~ 982
文久二年(一八六二)の習字の御手本を見ると、「村名覚え」として、河原町・荒屋敷・奥沢・鹿畑・下深田・上ノ坊宿・明宿・小林・町島・荒井・柳町・岡・今泉、といった現市内の大字や小字の地名が見られる。
 当時の書道は、今日のそれとはちがっていて、実用面が重視されていたことがわかる。また、このことは算術についても同じで、当時の教科書をみるとそろばんの使い方からはじまり、かなり高度な内容にまで入っているようである。問題例として「二組二品」というのがあるので紹介してみよう。
 これは「米五升と大豆三升で三四八文、米八升と大豆五升で五六四文、各々米一升、大豆一升の値段を問う」という問題であるが現在の中学校程度の内容である。
 このほかに「方程正負門」「開方積集門」「帯縦開平方門」などの難解な問題がのせられている(小貫康夫所蔵)。

寺子屋の教科書(小貫康夫氏蔵)

 大田原地方における寺子屋や塾などの教育の様子について阿久津モト所有の文書には、次のように記している。
教育ノ道ハ文武ノ二道ヲ以テ諸士ヲ教導スト雖トモ文学ハ和漢ノ書籍ヲ学ブ者ノミ許多ニシテ洋籍ヲ学ブ者ハ僅ニ二、三名ニ過キズ武術ハ槍剣ヲ首トシテ弓馬砲術其ノ他一モ欠クモノナシ然レトモ農工商ニ至リテハ別ニ教育ノ道ナク只筆算ノ二芸ニ止リ文学ノ如キハ士人以上ノ学ブモノトシ敢テ顧ミザルガ如シ偶ニ市在ノ人ニシテ学問ニ志ス者アレバ人々指サシテ大ニ怪シムニ至ル……(中略)……商人教導ノ道ハ小児七、八歳ノ時ヨリ筆算ヲ学ハセ十歳以上ニ至レハ江戸及ヒ其ノ他ノ商店ニ依頼シ商法ノ道ヲ研究セシメ年二十歳前後ニ至リ帰宅セシメ我一家ノ商法ヲ為サシムルヲ常トセリ(以下略)。

(阿久津モト文書)

 右の文書からみて、教育を受けることができた者は武家やごく限られた商家の子弟であったことがわかる。武士は藩校などで文武の二道を修め、町人の中でめぐまれた者は僅かであるが、各々の生業に必要な実用的な筆算・商法などを身につけさせたのである。
 当時の人々の教育に対する考え方や内容の一端をあらわすものとして貴重な資料である。