寺子屋から小学校へ

982 ~ 985
幕末から明治初期にかけて各所に普及したとみられる寺子屋であるが、大田原地方においては資料が十分に得られないのでいつ頃どこに、どのようなものがあったか明らかではないが、今後の継続研究によって詳細になることであろう。
 「栃木県教育史」には次のように寺子屋について記している。
  薬王寺
大田原市親園、薬王寺の住職と同地の漢方医真島弾正の両人が、教師となって同寺で寺子屋式の教授をした。
科目は、読み書きを主とした教授で、教科書は家庭往来・消息往来・実語教・女今川などでほかに手習をさせた。
生徒は付近の子供で、農繁期には五、六名位になるが、農閑期には三〇名もあった。
修業年限には格別定まりがなかったが、大体三年位で終る。
机・書物などの学用品は各自持参し、手習は七日目に清書を出して評語を付けてもらう。月謝は月に米一升位そのほか盆や正月などに重箱に入れた贈物をし、祝祭日などには各自おもいおもいの馳走を届ける位である。
沿革、開始の年月は明かでないが、同地老人の話では、文久(一八六一)年間には開かれていた。そうして明治七年(一八七四)九月に、同村の小学校として解迷舎が設置され、この薬王寺を仮校舎として開校したから、それまでは続いた。

  白石氏の寺子屋
大田原市佐久山、医師白石賢春は、医業のかたわら自宅で寺子屋式の教授をして、天保六年(一八三五)死亡した。その子立敬家業をつぎ、父のあとを受けて筆子を取り、元治元年(一八六四)十一月死亡した。その子松立(白陽と号す)も家業のかたわら寺子屋の教授をして、明治七年(一八七四)七月死亡した。

  佐久山柳田氏寺子屋
大田原市佐久山、医師柳田幸左衛門は、家業のかたわら筆子に教えた。その子昌曹も父の業をついで筆子を取り、明治二十六年(一八九三)十月死亡した。

  佐久山竹尾氏寺子屋
大田原市福原、医師竹尾元東は、家業のかたわら筆子を教授した。明治十年(一八七七)死亡。

と以上のように記されている。
 その他の記録等によると、加賀藩農民の移住の記述の中に浄土真宗教団の活躍にふれ、「僧侶の中にも例えば烏山慈願寺二十一世信了、佐久山常敬寺十三世了道、十六世了登のように、近世末期において寺子屋を経営したものも存在する」と書かれているが詳しくは分かっていない。
 大田原市新富町の「新屋敷天満宮縁起」によれば次の寺子屋名が記されている。
 大田原藩家老蕭(しょう)翰塾・伊藤家買山塾・内山家好泉塾・安見家塾。町方では、猪狩氏・土井氏・津久井氏などが家業のかたわら子女に筆・算を授けていたようである。
 他方、「横接郷土史」(塩原町横林・接骨木)の中に次のような記述がある。
「…組頭の子どもは特別に教育した。特に畑の面積計算は日常的必要があったからであろう。面積の勉強は念入りに行われた。組頭の子であった大島兼蔵さんは大田原藩家老いっかく様の家で教育された」とあり、使用された本人氏名入りの算術の教科書をかかげている。
 以上のごとく寺子屋か塾であるか判然としないものも含めて、各所の寺院や私宅において、いわゆる寺子屋の教育が行われていたことを推測することができよう。
 明治五年(一八七二)学制が発布され、近代学校制度が発足することになり、明治六年宇都宮県より私塾や寺子屋などの閉鎖が命ぜられると、各地に新しい小学校が開設されることになるのである。
 学校といっても、最初の頃は校舎は寺院や民家などを借りて行われ、寺子屋式の教育がしばらく続いたようである。
 大田原地方の小学校においては、寺院を仮校舎として開校したものが多い。これは庶民の教育がしばらくの間寺子屋で行われていたので、近代的教育制度の成立のときにその基盤となっていったことがうかがえるのである。町や村々の多くの寺院が、以前からすでに学問や教育・文化の中心的な存在となり、大きな役割りを果たしていたことときわめて深いかかわりがあったからであろう。これらについて次に表示する。
 大田原小学校 創立後焼失、洞泉院借用
 親園小学校  薬王寺を仮校舎として開校
 宇田川小学校 成就院  〃
 薄葉小学校  高性寺  〃
 石上小学校  西光院を仮校舎として開校
 市野沢小学校 宝積院  〃
 奥沢小学校  不退寺  〃
 佐久山小学校 実相院  〃
 福原小学校  永興寺  〃