第三節 塾・その他

987 ~ 995
 江戸時代には、武家の子弟を教育する藩校と庶民を対象として教育する寺子屋があったことは前述のとおりである。
 幕末のころから明治の初期にかけて両者と併立して発達してきたのが塾である。幕府の学問所や各藩の藩校に対して私的な教育機関であり寺子屋よりは高度な教育を行ったようである。
 江戸・大阪・長崎などには有名な学者の経営する洋学校や洋学塾が開かれていたが、地方では漢学・手習いを主としながら、教師の自宅に子弟を集めて開かれたものが多い。
 門下生が塾主の学徳を慕って来て、門弟は師匠の学風・学徳をそのまま受けつぐという風潮であった。
 大田原市内の各所に門人の名を連ねた恩師頌徳の碑が残されているが、当時の人々の師弟関係の深さや信頼関係をよく表しているものといえる。以下、残された記念碑文と「栃木県教育史(三巻)」の解説を参考に、要約してみると次のようである。
 
津久井塾
  所在 大田原市平沢(旧那須郡親園平沢村)
  師匠 津久井良平
  沿革 明治十年頃五年間
  教科 手習い 裁縫 漢学(郡山政五郎)
 津久井良平は大田原町の人で、天保九年(一八三八)に生まれた。家は商業を営んだが書道に精進して技大いに進み、家業を弟にゆずり戊辰(一八六八)の戦乱をさけて平沢村に移り、手習師匠となって筆子を取った。柳霜と号し、能筆であったから筆子が多く集まった。友人郡山政五郎をよんで漢学の教師とし、ほかに裁縫を女子にも教えた。五年間で大田原に帰ったので廃止した。明治二十四年六月病没。享年五四歳。翌二十五年三月、門人が頌徳碑を光真寺津久井家墓地に建てた。
 
   津久井良平之碑
君諱保基、称良平、津久井氏 下野国那須郡大田原売人、世為人温厚謹直 好施与 軽営利、業務之暇、専臨池之技、明治戊辰避兵禍譲弟彦次郎、寓干同郡平沢村、以書法教授後進、自号柳霜、受業者多矣、於是起学 設漢籍与裁縫、聘友人郡山政五郎者、充教員、自鑒督焉、〓郷薫化 名声漸聞 居五年有故帰旧里、明治二十四年六月十四日 以病歿 享年五十有四 葬於光真寺塋之側、追慕之余 欲樹石表之 以酬師恩、乃銘之曰
夙避営利 起学教人 法書遒婉 䠮踔超倫 薫陶子弟 徳及四隣 翁也不朽 遺業彬々
   明治二十五年  従三位 杉孫七郎 篆額
               石川鴻斎   撰

 郡山政五郎は、家が代々大坪流の馬術を伝えたので、馬術にくわしく、徳川幕府七人衆の一人であった。大田原侯に招かれ、藩士馬術の師範となり、かたわら藩学時習館の教師となって漢文を教えた。廃藩後平沢の津久井塾に教鞭を執ったが、同塾廃止後大田原に来て、旧知の印南嵐を助け、興風館にも教授した。良平に先立ち、明治二十年没した。享年六六歳、同町光真寺に葬られている。同三十八年門人等が先生を追慕して、報徳の碑を同町薬師堂の境内に建てた。
 
   郡山先生之碑
先生諱亨、称政五郎、郡山氏、華南其号也、父日秀左衛門、母某氏、世以大坪流馬術承教、蓋徳川幕府七人衆其一也、到先生仕大田原侯、以御馬術教授、性温厚慎黙、似不能言者、而文学博宏、通皇漢経史、受業於門者頗多矣、娶女山宅氏、名須賀子、生二子、男逢吉郎襲家、女智恵子、嫁某氏、先生一朝罹病意不起、享年六十六、吁哀哉、葬大田原光真寺内、時明治二十年九月二十三日、今茲門人諸氏、相謀建石、以告後人云、銘曰
 唯知楽天 又何求聞 名利泥土 富貴浮雲 久友麋鹿 長混鶏群 一片苔石 留欲弔君
  明治三十八年九月建                            印南嵐 撰文

 
旭塾
  所在 大田原市佐久山、松原
  師匠 旭鵑岳
  沿革 明治初年
  教科 漢文を主として教えた。
 旭鵑岳は、福島県の旧安部藩の藩士であるが、任を辞して佐久山に来り、松原に住んで子弟を教授した。鵑岳の人柄を聞いて、教えを乞う者が僅かの間に増加した。またここに長く定住せず、近在を歩き回って教授したが、明治十八年一月二十日、福島県白河町の西町で病没した。年六三歳である。同二十二年四月、門人五十余名が先生記念の碑を松原の墓地に建てた。正面の文字「旭鵑岳先生碑」は高橋宇兵衛(高橋塾の師匠)の筆、碑文は宇田川の代田有光の撰で、文字は佐久山町森島弥三郎(門人)が書いたと伝えている。碑の左側面に、「書きおくもかたみとなれや筆のあと、何処のいづ国の土となるらん」とあるが、これは恐らく筆者森島弥三郎の歌であろう。
 
   旭鵑岳先生碑
先生称鵑岳、姓旭氏、安部藩之士也、有故辞而到干此地、聚子弟教授文学、門徒日盛、居周歳、退而転干各地邨 病遂明治十八年一月念、歿干西町、享年六十三、先生好文学、喜画描仏像、今茲諸生謀、立記念碑伝不朽
   明治二十二年四月十四日建之

 碑の台石には、松原、滝岡、小種子島、滝沢等村々の門人の建碑者の人名が刻んである。
 
福原塾
  所在 大田原市福原
  師匠 福原兎毛
  沿革 明治初年
  教科 漢学・国語・詩歌の作法を教えた。
 福原兎毛は、和漢の学に通じ詩歌をよくした。またキリスト教を信じ、東京駿河台の伝教学舎に入りニコライに学び、業成って伝導に従事したので、教えを受けたものは、東京方面にもある。
 経歴、福原兎毛は、諱は重成、字は正夫といった。のち癡斎と改めた。佐久山城主福原氏の支流の福原重威の次男で、天保二年(一八三一)佐久山に生まれた。塾を開いたのはいつであるか明かでないが、文久の初年(一八六一)から上京して神学校に入るまで二〇年間位である。性剛直で、主家に事あるごとに直言してはばからない。そのために主君の怒りをかって、家老の職禄を召し上げられ、三年間幽閉された。明治維新の際、主家福原氏は大いに人材を必要としたから、その忠誠を慕って旧職に復し政務に当らせたところ、成績は甚だ挙がった。のち里正となり、ついで郡吏に任ぜられ循吏と称せられた。
 晩年キリスト正教を信じ、聖名を雅冬といった。いくばくもなくして職を辞し、上京して駿河台の神学校に入りニコライ師の教えを受けた。時に五〇歳を越した老境であったが、少壮の人たちと肩をならべて熱心に学んだ。業成って地方の教会主となって専心伝道に従った。のち麹町神学校に聘せられて学監となり、三年の間勤務して退いた。のち数年閑地にあったが、病んで明治二十九年一月武州与野町で没した。享年六六歳。東京染井の墓地に葬られた。
 明治四十三年三月、門人や旧知の者四二名が謀って、頌徳碑を佐久山の招霊山に建てた。碑には門人の建碑寄付者の氏名が刻んである。
 
   癡斎先生之碑
先生諱重成 字正夫 通称兎毛、後更癡斎以通称行、其出自藤原鎌足公、公庶裔有那須資、資隆第四子久隆、食野州福原、因氏焉、久隆十三世日資孝、其第六子保通、別興一家、保通孫日晴貞、其弟重興、又分家、子孫世仕宗家、居佐久山、重興後五世日重威、先生其第二子也、先生幼而頴悟、学兼和漢、博通経史、旁善詩歌、為人敦厚質直、而有気節、所交皆当世俊髦、名声大顕、郷邑子弟多来問業、其老職也、会主家有事、乃謇諤、言為触忘、奪職禄被幽閉幾三年、窮因無言、而処之泰然、勇健如旧、癡斎号蓋始干此、維新之際、海内騒擾、物論紛紛、士大夫往往有抂其志操、而趨走世途者、然先生毅然守節、而不沽、奥羽役官軍参謀板垣退助、伊地知正治等、竊薦任官、亦固辞而不応 時主家大要人材 深懐其忠誠 召而後復旧職、視事明敏、施設得宣、後挙里正、尋任郡吏、鋭意膺職、有循吏称、晩年大有所感、奉基督正教、聖名称雅冬、無幾辞職上京 入駿台教学舎、受業於尼格頼、師齢既踰知命、而与少壮諸生、連案講究、可以見其志之篤矣、業成奉教職於地方教会、専心伝道、方麹町教会興、啓蒙神学校、聘為学監、恪勤三年、退就閑、後数年獲病 歿干武州与野町、享年六十有六、実明治二十九年一月二十七日也 葬遺骸於東都城北染井塋域、先生平生堅守教規、祈祷斎戒、靡有懈怠、臨歿告解領聖 面有喜色、室阿久津氏、生二男三女、斎家厳粛、長幼輯睦、先生豊頬美髯、風丰藹然、曽不修辺幅、接人寛厚、持己端厳、而襟懐高潔、超然蝉脱、時俗其為人所畏愛敬慕固有以也、明治四十三年春三月 門人故旧胥謀、将建碑以其徳不朽 属銘干余、乃拠状敍其梗概、銘曰
 守節弘道 厥徳湛湛 目珉勒銘 永垂儀範

 
高橋塾
  所在 大田原市滝沢
  師匠 高橋宇兵衛
  沿革 明治初年頃から同二十三年頃まで
  教科 読書と習字を主として教授した。
 高橋宇兵衛は諱を安重といい、文政元年(一八一八)六月、佐久山蓮田真正の三男として生まれた。のち滝沢の士族高橋安之の養子となって高橋氏をついだ。幼少の時から文武の両道を修め、能書で剣道弓馬の術に通じた。
 戊辰の役には佐久山の旗本福原資生に仕えて勲功があった。激務のかたわら子弟を教育したので、門人その徳を景仰して、明治二十三年一月、先生七三歳の時、その寿碑を滝沢神社の境内に建てた。
   高橋先生寿碑
先生名安重 姓高橋氏 称宇兵衛 下野佐久山人也 考姓蓮田 諱貞正 先生其三子 以文政元年戊寅六月生 高橋安之君養為嗣 以妻之 家世仕福原 先生少壮 善書剣弓馬 兼通礼式 資功 資生二君皆重之 従納戸役 累遷家老 理財賦拓荒撫 福原氏頼以富実 戊辰中興 大師東伐 資生君 勤労王事 為白河民政局取締 朝廷賞之 賜金若干 資生君 思先生輔翼之力居多 頒其賜以酬焉 先生性温厚寛容 身在劇職且教授子弟 入其門者百数十人 有二子 長日安誉 戊辰之役奔走頗力 為山梨県副典獄 第三綱出嗣横山氏 二女適蓮田氏 渡辺氏有孫十四人 而先生年七十三 与夫人皆康疆 優遊養老 慶福萃干一門 門人佐藤初太郎等 景慕余 欲勒石以謀不朽 来属予文 予与安誉君有旧交誼 不可辞 因略其功与徳 顕干世表之
 干時明治二十三年一月
 栃木県書記官正七位木間瀬柔三篆額普撰文
                                 門人 佐藤初太郎 書

高橋宇兵衛は、その後天寿を全うし、同三十三年十月二十六日、八三歳で没した。
 
実相院
  所在 大田原市佐久山 実相院
  師匠 住職浜田石仲
  沿革 明治三年から同二十年まで
  教科 主として読書・手習を教授した。
 浜田石仲は明治三年実相院住職となってから弟子に読書・手習の教授をはじめた。明治二十年九月遷化したから、およそ一七年ほど続いた。その後をうけて浜田雲山が住職となり教授を続けた。雲山は同四十五年遷化した。教えを受けたものは青年の男子で、雲山の代となっては漢文が主であった。