明治六年ごろから各地に学校世話係、または学校掛と呼ばれる学事担当の村役人(戸長)をおき、学区取締の下に地域の学事関係者、結社有志、その他の人々の努力によって小学校が設立されていったのである。
学校世話方の辞令
栃木県の小学校開設数を見ると、明治六年に二五五校、同七年には五〇七校と増加し、同八年には総数六五八校が設立された。
小学校の開設にあたっては、各町村ごとに開学願書を県に提出し、開学の許可を得たのである。
大田原小学校の「開学願書」について、益子孝治は次のように解説している(「創立百周年」大田原小学校)。
「大田原小学校にあっては、学校位置を旧藩士屋敷跡、大田原宿一四五番地、現在の城山一丁目六番二号君島文具商店附近に新築して、栃木県管轄第一大学区第三十九番中学区第九十三番小学区那須郡大田原学校と称した。
学科は尋常小学。教則は小学正則を用いたほか、次の塾則を用いている。
教師には、印南嵐をあて初代の校長としている。(明治七年四月から九年十月まで就任)印南嵐は明治六年十一月より同七年二月まで教授法研究(教員養成)のため栃木類似師範学校(明治六年五月三十一日栃木市万町の近竜寺に開校)に留学している。
これ以前は大田原藩学校時習館において、嘉永三年(一八五〇)より文久三年(一八六三)まで金枝健(柳村・塾頭)について支那学を修め、同年十一月から明治三年まで助教、同年十月より五年まで教頭を勤めた人物で、当時三十八歳三ケ月である。(明治四十五年一月卒去、年七十七歳、現在中田原湯泉坂麓に墓がある。)
学校費一ケ月の出納としては、教師の給料は教頭が六円、助教五名で十一円、助教にあっては一名二円二十銭である。このほか舎長五名で給料二円、正副事務掛二名で三円五十銭。役夫給料一円。試業料七十五銭。書籍費一円五十銭。屋賃五十銭。営繕費一円。諸雑費三円の内訳となって総計三十円二十五銭が学校一ケ月分の費用であった。
収入の部では、区内集金が二十七円二十五銭、出校生徒よりの月謝三円となっている。
三円の内訳は上等十二歳一ケ月から十四歳までが月六銭、中等九歳一ケ月から十一歳までが月五銭、下等六歳一ケ月から八歳までが月四銭の段階で授業料を徴収したのである。
出願人は大田原宿結社人―いまでいう準備委員といったところである。用掛り北川又一。周旋人阿久津帆平。副戸長兼周旋方飯村定武。副戸長渡辺渡。戸長藤田吉亨各氏の連名で、前述の学校位置、学校費用概略、教員履歴、教師給料、学科、教則、塾則、学校費用一ケ月分出納概略等を明記し、明治七年五月学区取締内山秀安を経由し時の栃木県令鍋島幹に提出されたのである。
許可にあたっては「公学開業御差免相成候事、明治七年十一月、栃木県」開学願書を五月に提出して十一月に許可になり、ここに正式に大田原小学校は創立、開校されることになったのである(「創立百周年」)。
学科は尋常小学。教則は小学正則を用いたほか、次の塾則を用いている。
一、士民六歳以上十三歳までの男女共入学いたすべきこと。
一、入学のときは区郡村名、苗字、名前、年会書を事務掛に提出すること。
一、校中の諸規則を守り、教員、事務掛の指導に背かぬこと。
一、書籍は大切に取り扱うこと。
一、演習時間に遅刻した者は、その日は教学させないこと。
一、教官・校中の諸規則に背いた者は、退学させること。
一、毎年一月四日に始業を開始し、十二月二十五日に閉校のこと。
一、月末ごとに生徒一同試験を行い、その結果によって賞与をあたえること。
一、入学のときは区郡村名、苗字、名前、年会書を事務掛に提出すること。
一、校中の諸規則を守り、教員、事務掛の指導に背かぬこと。
一、書籍は大切に取り扱うこと。
一、演習時間に遅刻した者は、その日は教学させないこと。
一、教官・校中の諸規則に背いた者は、退学させること。
一、病気又は事情により欠席する者は、同級の者より欠席の理由を付け事務掛に申し出ること。但し三日以上の者は欠席届を提出すること。
一、毎年一月四日に始業を開始し、十二月二十五日に閉校のこと。
一、祭日、祝日、一日、六日は休日のこと。但し三十一日は休日にあらず。(四日制の授業である)
一、月末ごとに生徒一同試験を行い、その結果によって賞与をあたえること。
教師には、印南嵐をあて初代の校長としている。(明治七年四月から九年十月まで就任)印南嵐は明治六年十一月より同七年二月まで教授法研究(教員養成)のため栃木類似師範学校(明治六年五月三十一日栃木市万町の近竜寺に開校)に留学している。
これ以前は大田原藩学校時習館において、嘉永三年(一八五〇)より文久三年(一八六三)まで金枝健(柳村・塾頭)について支那学を修め、同年十一月から明治三年まで助教、同年十月より五年まで教頭を勤めた人物で、当時三十八歳三ケ月である。(明治四十五年一月卒去、年七十七歳、現在中田原湯泉坂麓に墓がある。)
学校費一ケ月の出納としては、教師の給料は教頭が六円、助教五名で十一円、助教にあっては一名二円二十銭である。このほか舎長五名で給料二円、正副事務掛二名で三円五十銭。役夫給料一円。試業料七十五銭。書籍費一円五十銭。屋賃五十銭。営繕費一円。諸雑費三円の内訳となって総計三十円二十五銭が学校一ケ月分の費用であった。
収入の部では、区内集金が二十七円二十五銭、出校生徒よりの月謝三円となっている。
三円の内訳は上等十二歳一ケ月から十四歳までが月六銭、中等九歳一ケ月から十一歳までが月五銭、下等六歳一ケ月から八歳までが月四銭の段階で授業料を徴収したのである。
出願人は大田原宿結社人―いまでいう準備委員といったところである。用掛り北川又一。周旋人阿久津帆平。副戸長兼周旋方飯村定武。副戸長渡辺渡。戸長藤田吉亨各氏の連名で、前述の学校位置、学校費用概略、教員履歴、教師給料、学科、教則、塾則、学校費用一ケ月分出納概略等を明記し、明治七年五月学区取締内山秀安を経由し時の栃木県令鍋島幹に提出されたのである。
許可にあたっては「公学開業御差免相成候事、明治七年十一月、栃木県」開学願書を五月に提出して十一月に許可になり、ここに正式に大田原小学校は創立、開校されることになったのである(「創立百周年」)。
大田原小開学許可書(阿久津モト氏蔵)
開学願書
第一条
学校位置
栃木県管轄第一大学区第三十九番中学区第九十三番小学区那須郡大田原宿百四十五番地新築大田原学校ト唱フ
第二条
学校費用概略
金三拾円二拾五銭
内
金拾七円 教員給料
金四円五拾銭 事務掛並役夫
金二円 舎長給料
金二円二拾五銭 試業褒賞料並ニ書籍費
金四円 営繕並諸雑費
第三条
教員履歴
下野国那須郡中田原居住栃木県貫属士族 定禄七石二斗 印南嵐 当七年三十八歳三ケ月
旧大田原藩
栃木類似師範校江明治六年十一月ヨリ同七年二月迄教授方法研究
第四条
教師給料 金六円
第五条
学科、但尋常小学
教則 但小学正則ヲ用ユ
塾則
一、士民六歳以上十三歳迄男女共入学可致候事
一、入学之節者区郡村名及苗字名前年齢書ヲ以事務掛江可申出事
一、校中之諸規則ヲ守教員事務掛之指揮違背致間敷候事
一、書籍大切ニ取扱可申事
一、演習刻限ヲ外シ出席之者其日教授不致候事
一、教官之招揮ニ背キ校中之諸規則ヲ不用者ハ退学申付候事
一、毎歳一月四日開学十二月二十五日閉校之事
一、御祭日御祝日一・六休暇之事 但三十一日者休暇ニアラズ
以上
右之通開業仕度此段奉願候也
結社人
第一条
学校位置
栃木県管轄第一大学区第三十九番中学区第九十三番小学区那須郡大田原宿百四十五番地新築大田原学校ト唱フ
第二条
学校費用概略
金三拾円二拾五銭
内
金拾七円 教員給料
金四円五拾銭 事務掛並役夫
金二円 舎長給料
金二円二拾五銭 試業褒賞料並ニ書籍費
金四円 営繕並諸雑費
第三条
教員履歴
下野国那須郡中田原居住栃木県貫属士族 定禄七石二斗 印南嵐 当七年三十八歳三ケ月
旧大田原藩
金枝健江嘉永三庚戌年ヨリ文久三発亥年迄支那学修業同年十一月ヨリ明治三庚午年迄助教同年十月ヨリ同五年迄教頭奉務
栃木類似師範校江明治六年十一月ヨリ同七年二月迄教授方法研究
第四条
教師給料 金六円
第五条
学科、但尋常小学
教則 但小学正則ヲ用ユ
塾則
一、士民六歳以上十三歳迄男女共入学可致候事
一、入学之節者区郡村名及苗字名前年齢書ヲ以事務掛江可申出事
一、校中之諸規則ヲ守教員事務掛之指揮違背致間敷候事
一、書籍大切ニ取扱可申事
一、演習刻限ヲ外シ出席之者其日教授不致候事
一、教官之招揮ニ背キ校中之諸規則ヲ不用者ハ退学申付候事
一、病気又者無余儀事情ニ而欠席スル時者同輩之者ヨリ其段事務掛江可相届事 但三日以外者書面ヲ以可届出事
一、毎歳一月四日開学十二月二十五日閉校之事
一、御祭日御祝日一・六休暇之事 但三十一日者休暇ニアラズ
一、月末毎ニ生徒一同試験之上其業之進否ニ因テ賞誉黜陟(ちゆつちよく)可致事
以上
右之通開業仕度此段奉願候也
結社人
明治七年五月 用掛リ 北川又一
周旋人 阿久津帆平
副戸長兼周旋方 飯村定武
副戸長 渡邊渡
戸長 藤田吉亨
栃木県令鍋島幹 殿
前書之通申出候ニ付進達仕候以上
学区取締 内山秀安
学校費用一ケ月分出納概略
納ノ部 | 出ノ部 | ||
区内集金 | 金二拾七円二拾五銭 | 教頭給料 | 金六円 |
出校生徒課金 | 金三円 | 助教五名給料 | 金拾一円 |
舎長五名給料 | 金二円 | ||
正副事務掛二名給料 | 金三円五拾銭 | ||
役夫給料 | 金一円 | ||
試業料 | 金七拾五銭 | ||
書籍費 | 金一円五拾銭 | ||
屋賃 | 金五拾銭 | ||
営繕費 | 金一円 | ||
諸雑費 | 金三円 | ||
総計金三拾円二拾五銭 | 総計金三拾円二拾五銭 |
公学開業御差免相成候事
明治七年十一月
栃木県
(阿久津モト文書)
大田原小開学願書(阿久津モト氏蔵)
他のいずれの地域においても同様な願書を同じ手続きを経て提出し、県からの許可を得て開校の運びとなったのである。
ここに至るまでの各地区の人々の苦労は並大抵のものではなかった。地区有志による校舎敷地の確保や経費の工面、寄付献金願、教師の任用など、学校設置のための懸命な努力の様子がうかがわれる。
明治六年四月九日、小学校位置及ヒ校則等ヲ督学局ニ陳啓シ以テ此答ヲ請ヒ允許ヲ得タリ、其略左ニ
第1表 宇都宮県管下各小学校位置一覧表 |
中学区 | 番号 | 郡名 | 村宿町名 | 番号 | 郡名 | 村宿町名 | 番号 | 郡名 | 村宿町名 |
第四十二番中学区 | 三十番 | 那須 | 佐久山宿 | 三十三番 | 那須 | 下石上村 | 三十五番支校 | 那須 | 下井口村 |
三十一番 | 〃 | 宇田川村 | 三十四〃 | 〃 | 大田原宿 | 三十八〃 | 〃 | 中田原村 | |
三十二番 | 〃 | 成田村 | 三十五〃 | 〃 | 大田原宿寺町 | 三十九〃 | 〃 | 市ノ沢村 |
※大田原関係のみ |
(「栃木県史 史料編・近現代八」) |
大田原地方では、明治六年から同八年ころにかけてさかんに開校されている(第1表)。しかし、学校の校舎を新築することは敷地や経費負担等の事情もあって直ちにということは極めて困難であったようである。そのため多くは寺院等を借用して仮校舎にあて、不完全ながらこのようにして小学校が発足したのである(第2表)。
第2表 小学校開設 |
校名 | 創立 | 開校所在 |
大田原学校 | 明治六・一二・七 | 大田原宿大手に新築開校する |
解迷舎 | 〃 七・九・ | 親園村楽王寺を仮校舎として開校 |
汎愛学舎 | 〃 七・七・二五 | 宇田川村成就院を〃 |
薄葉小学校 | 〃 七・八 | 薄葉村高性寺を〃 |
鞠育学舎 | 〃 七・六・一〇 | 下石上村西光院を〃 |
添智学校 | 〃 七・九 | 市野沢村宝積院を〃 |
益才学校 | 〃 七・四 | 奥沢村不退寺を〃 |
金丸舎 | 〃 七・一二・一 | 南金丸村那須神社境内に設立する |
鍋掛日新館羽田分校 | 〃 八・七 | 羽田村戸辺氏宅を仮校舎として開校 |
佐久山小学校 | 〃 七・一一・二九 | 佐久山宿宗相院を〃 |
福原小学校 | 〃 八・ | 福原村永興寺を〃 |
(「各学校沿革誌」より作成) |
小学校が発足するにあたって、従前の寺子屋等に対して、県がどのような方針をとったかについてはおおむね次の三方法が考えられる。
第一は、従来の寺子屋・私塾等を廃止して、新しく小学校を設立したもの、第二は、寺子屋は一応そのままとして小学校を新設し、生徒を次第に小学校に吸収するもの、第三は、寺子屋を合併し、これを改造して小学校を設立しようとしたもの、これらのほかに複合形式のものなどもあった(第3表)。
第3表 明治八年栃木県小学校の校舎実情 |
四一七 | 二 |
一一〇 | 一 |
八八 | 一 |
九 | 一 |
三 | 二四 |
二 |
(「栃木県教育百年のあゆみ」) |
いずれにしても寺子屋・私塾等が、小学校設立の母体として重要な役割を果たしたのである。寺子屋の師匠と寺子がそっくり小学校の教師と生徒となった例は各地に見られたことである。
明治における創立時の学校名について、那須北地方においては次のような名称が見られる。
舎 | 真国舎・東雲舎・鞠育舎・金丸舎・解迷舎・正風舎・温習舎・誠明舎・万年舎・蔵針舎・修斉舎・正中舎・化成舎・東光舎・育才舎など |
学校 | 大田原学校・蓑沢学校・寺子学校・益才学校・添智学校・毓民学校・又新学校など |
館 | 亮道館・維新館・作新館・仰高館・弥生館・亭毒館など |
学舎 | 発育学舎・汎愛学舎・草風学舎・明道学舎・教民学舎・修身学舎など |
(「那須野の教育」) |
「学則」の被仰出書の趣旨にそった名称や創立の地名、学校の方針を示すものなど、当時の人達の学枝教育に対する理想像が、うかがわれる。