しかし、これは正式開校ではなく、地元開校準備委員の人達によって、資金調達や校地選定、校舎建築等と並行して、着々と開校準備の作業がすすめられており、県の許可を得べく、同七年(一八七四)五月、結社内有志によって開学願書が知事あてに提出された。
許可になるまでは、いわゆる結社の学校とみられるが、学制の方針に基づいて、結社の人達の努力によって開校されたものであるから、近代的学校の創立として当然でなかろうか。当時においては全国各地とも同じ傾向であったようである。
不幸にも、ちょうどこの月に開校間もない大田原学校の校舎が、火災にあい焼失してしまうのである。
直ちに旧大田原藩作事跡剣道場(城山二~一四~八)付近に仮校舎を開設し、生徒の勉学は休まずに続行されることになる。学校がこの仮校舎にあるとき県から開校許可がおり、同七年十一月をもって正式開校となったのである。
開学願書の提出と校舎焼失のどちらが先か不明であるが、いち早く開学許可の準備をすすめていたことから推して、願書提出後に焼失したものと思われる。
開学許可があって、同八年六月には仮校舎が狭くなって不便なので、学校を移転したいという願いを県に提出し、許可を受けている。
転校之儀ニ付伺書
第三大区七小区大田原宿三十九番中学区二十番小学大田原学校
右者昨七年五月焼亡後仮学校狭少不便宜ハ勿論其上大彼罷成候ニ付今般同宿七百七十六番地洞泉院江移転仕度依テ結社村々協議勿論同院住職江モ示談於調候間図面相添此段伺上候也
明治八年六月
右 宿
用掛 江連政盛
柏原寿延
北川又一
洞泉院住職 郷禹門
右区副区長 太田義明
栃木県令 鍋島幹 殿
前書之通相違無之候也
学区取締補 阿久津修斉
書面願之趣聞届之事
明治八年六月七日
第三大区七小区大田原宿三十九番中学区二十番小学大田原学校
右者昨七年五月焼亡後仮学校狭少不便宜ハ勿論其上大彼罷成候ニ付今般同宿七百七十六番地洞泉院江移転仕度依テ結社村々協議勿論同院住職江モ示談於調候間図面相添此段伺上候也
明治八年六月
右 宿
用掛 江連政盛
柏原寿延
北川又一
洞泉院住職 郷禹門
右区副区長 太田義明
栃木県令 鍋島幹 殿
前書之通相違無之候也
学区取締補 阿久津修斉
書面願之趣聞届之事
明治八年六月七日
(阿久津モト文書)
以後、洞泉院の仮校舎は第一校舎(後の推譲館)の新築された同二十五年(一八九二)八月まで続くのである(第1図)。
第1図 洞泉院時代の校地図