学校建設の気運高まる

1031 ~ 1032
明治十四年一月十四日付「栃木新聞」は、那須郡南金丸村・北金丸村における小学校新築の運動について、次のように報じている。
 
「……那須郡南金丸村北金丸村にて、此迄中央に金丸仮学校を設け生徒僅か三十名許ありし処、昨年七月中、学務委員戸長協議の上、懇々人民に諭し金丸分校を設け生徒を就学いたさすよう相談せしかども、毎も馬耳東風で兎角分校を設くる基礎も立たずそれなりに過ぎしが、学務委員戸長等一計を回らし両村人民一同を戸長役場へ呼寄せ教育演説話を設きたり、其演説の大意は国会請願も全国一般惣代より天皇陛下に請願し奉らば請願の御聞届も近きにあるべし、然りながら国会開設までは十年余懸るならん、其頃には今日の児童の中にも英雄秀才出来て国事に参与するものなしとも言いがたし、然れば此両金丸の寒村も今日学校を開らき生徒をして就学せしむるは父兄諸君の責任にあらずや云々、村民聴き了りて一同至極尤なりと一座の演説に誘導かれ、早速両村分離の上便利を謀り中央の地へ学校を新築することに決めたり、然るに北金丸は戸数僅か七十戸許の貧村なれば如何と思いしに、先般県庁より御割戻に相成たる明治九年の租税過納金百五十円を配せず、それへ銘々出金して四百八十円余の金員を学校新築費の内へ収納許可願並に新築願を昨十二月三日那須郡役所へ願出許可に相成り、本月頃棟上する見込にて着手せり、又南金丸村も二百円余の金を上納して新築に着手せりと言う……。」

 当時の栃木県地方は、自由民権運動が盛んな時期であり、各地で演説会が開かれ自由に教育論争を展開する名士もあらわれ、教育的啓もうのようすをうかがうことができよう。