教育行政

1032 ~ 1033
当時の地方行政機関は、文部省監督局の下に地方官(知事県令)が置かれ、次のような担当者が学事関係の任にあたった。
 「学区取締」は地方教育行政の事務担当者で、当時はどの府県にも置かれ、一中学区に一〇名から一二、三名を置き、小学区二〇ないし三〇を受け持ち、就学の督促、小学校の設立、学費の調達等の学事関係一切の仕事を行う者である。その人選は土地の有識者等から地方官(知事)が任命し、給料は地元負担であった。
 「学校役員」は学区取締の補助機関として、学校取締・学校世話役・学校掛などの名称で、各町村に置かれ、区長・戸長の人選で任命されて無給であった。
 「学務委員」は明治十二年(一八七九)「教育令」の公布によって学区取締・学校役員が廃止され、代ってこの委員が置かれるようになったのである。これは、町村内の学校事務を担当し、その中には戸長が加えられ、その人選は村から推せんされた者を知事が任命した。同十八年教育令の改正により廃され、戸長がこれに代った。同二十三年復活し、市町村制に基づいて設置され、教育事務について市町村長を補助するものと定めている。また小学校教員を加えるものとし、後には学校長や元村長などの土地の有力者が選ばれるようになった。
 この制度は第二次大戦後の学制改革による教育委員会制度になるまでつづいた。
 「栃木県史 史料編」には、県内学務一覧がのっているので次に記す。
 
本月(明治十四年)県庁ニ於テ……那須郡内ノ各小学区ニ於テ選定セル学務委員ニ認可状ヲ授与セシ人名左ノ如シ、(大田原関係のみ)
自第一番小学区至第八番小学区   中田原村 印南嵐
自第六五番小学区至第七〇番小学区 佐久山宿 斉藤武助

(「栃木県史 史料編・近現代八」)