これは政府が先進欧米諸国の知識や文化を急速に吸収していくためには、新知識を覚えさせることを第一とし、いかによく覚えたかをためす方策であった。
試験制度はきわめて厳格なもので、「栃木県試験条規」(明治十年)により次の四種類が実施された。
○月末試験 一か月毎に試験をして成績に応じて教室内の席順を並べかえる。又成績順位を校舎の外にはり出したのである。
○定期試験 進級試験ともいい、六か月終了すると試験を受け、合格すれば一級進級する。このとき卒業証書が与えられ、こうして八級から一級へと進み、一級を終えて下等小学校を卒業することになる。
大田原小学校の卒業証書(鈴木さだ氏提供)
○卒業試験 大試験ともいい、下等小学校四年を卒業するときの試験で、合格すれば上等小学校へ進むことができる。
○臨時試験
この試験は担任の訓導が行うのであるが、月末試験には学区取締又は学事分任戸長が臨席し、定期試験には区長もしくは戸長・学区取締各一名と区内の小学校の訓導一名との三名立会の上、生徒一人ずつを呼んで、素読・講義・問答を試み、次に二〇名位を試験場に入れて算術・書取・作文・習字等の試験を行った。
試験場の様子は、「栃木県小学生徒試験条規」から推して各地とも第2図試験場配置図のようであったと思われる。
第2図 試験場配置図
定期試験および卒業試験の結果、学力優秀な者には賞を与えた。しかし進歩の遅い生徒は落第させて原級に留置させ、進度の早い生徒には「飛級」「速進」の方法もあった。この速進を実施するために臨時試験の制度が設けられ、必要に応じて試験を行い、学期の途中でも学力のすぐれた者は進級させた。
また、成績一覧表が校門外に発表され、県へ報告され公報にのせられた。
このように整然とした細密な規則であったが、明治十年代の後半になると、「教学大旨」の方針のもとに徳育主義いわゆる修身が重視されるようになって、「学力と行状」の二つに分けて行われ、特に同二十三年教育勅語の発布以来、平素の道徳的態度の評価が重視されるようになった。
同二十四年文部省は「競争試験」が生徒の心身を害するという、教育上の弊害を指摘したため低調になり、同二十七年試験による席順の上下を禁じ、同三十三年心身に害のある方法を改めた。
地第二十一号
本年小学校生徒大試験之義ハ来ル三月七日ヨリ後記日之通リ施行ス 但部内一般ヘ広告スベシ
栃木県那須郡長 安藤小次郎
明治二十五年小学校大試験日割(大田原市関係のみ)
期日 学校名
三月七日ヨリ八日迄 大田原高等尋常小学校
同 八日ヨリ九日〃 親園尋常小学校
八日ヨリ十一日〃 市野沢尋常小学校及各分教室
九日ヨリ十一日〃 薄葉尋常小学校及各分教室
十三日ヨリ十六日〃 佐久山高等尋常小学校及各分教室
(大田原・第五四)
なお細部の日程などについては、各役場より一般へ通知されたのである。
大田原尋常高等小学校生徒臨時大試験
来ル九日、午前八時ヨリ施行条此旨一般へ公告方取計フベシ
明治二十五年四月七日
那須郡長 安藤小次郎
(大田原・第五四)
御請書
那須郡第一番学区
大田原小学校初等科第六級卒業生
栃木県平民 大高キン
一、小学読本 二冊
一、習字本 一冊
試験優等ニ付頭書之賞品ヲ下与ス
明治二十年三月十六日 栃木県
右 謹而御請申上候也
明治二十年四月十四日
女きん
実父大高文七
代印大高峰七
御請書
那須郡第一番学区
旧大田原小学校初等科第六級卒業生
栃木県平民 郷義雄 六年五月
一、訂正小学作文書 三冊
試験優等ニ付頭書之賞品ヲ下与ス
明治二十年六月二十日 栃木県
右 謹而御請申上候也
明治二十年七月十三日
右 郷義雄
父代印郷禹門
栃木県知事 樺山資雄 殿
(大田原・第五四)