教育勅語と学校教育

1052 ~ 1055
明治二十二年(一八八九)「大日本帝国憲法」の発布、翌年には大日本帝国議会が開設され、わが国は欧米諸国に並んで近代立憲国家として成立していくのである。この国家体制の中で、明治二十年代の教育は、徳育主義を中核とする学校教育が盛んに論議され、国家主義的な教育が強調されていくのである。
 同二十三年(一八九〇)十月三十一日、明治天皇は、時の総理大臣山県有朋、文部大臣芳川顕正を宮中に召し、「教育に関する勅語」を下賜された。

教育勅語

 この勅語によって、国民道徳の根本理念が明確になり、文部省は全国の学校に勅語謄本を送り、その奉読式を命じた。ついで、栃木県においても次の訓令を発した。
 
栃木県訓令 明治二十三年十二月二十日
 今般、教育ニ関シ勅語ヲ下シ賜ヒ文部省ヨリ其謄本ヲ頒布セラル乃チ文部大臣ノ訓示ヲ副ヘ茲ニ之ヲ交付ス依テ教育ノ職ニ有ル者篤ク聖旨ヲ奉体シ教育ノ方鍼ヲ誤ラサル様公私立学校ヘ遍ク伝達スヘシ

(「栃木県教育史 三巻」)

 このようにして、県内の小学校では勅語の奉読式を行った。
 勅語謄本・御真影の取扱いは県からの指示に従い、各町村とも、町村長・校長・職員・生徒・役場吏員・地区有志者等が全員揃って奉迎し、学校の玉座に安置したのである。
 野崎村「郷土の研究」には、次のような記録がある。
 
     御真影拝戴
  明治天皇両陛下御真影 明治三十一・六・十
  大正天皇   〃   大正四・十・二十八
  今上天皇両陛下〃   昭和三・十・二
  奉安殿設置      大正九・十(工費五〇〇円)
 続いて、同二十五年県令によって、祝日・大祭日儀式の次第が規定され、学校の行事が儀式として統一されていくのである。
 県内の各小学校はもちろん各学校において、ほとんど同様であったと思われるので、その県令を抄出する。
 
     栃木県令
  明治二十四年文部省令第四号小学校祝日大祭日儀式規程第八条ニヨリ小学校祝日大祭日ノ儀式ニ関スル次第左ノ通リ相定ム
    明治二十五年三月二十二日
                                   栃木県知事 折田平内
 
 小学校祝日大祭日儀式ニ関スル次第(抜粋)
 第一条 小学校ニ於テハ紀元節天長節元始祭神嘗祭及新嘗祭ノ日ニハ左ノ次第ニ依リ儀式ヲ行フベシ
三、学校長教員生徒及参列員一同
天皇陛下皇后陛下ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行フ、次ニ学校長教員及生徒一同唱歌ヲ合唱ス訖テ学校長若クハ首席教員一同ニ代リ謹テ両陛下ノ万歳ヲ奉祝ス此時一同最敬礼ヲ行フ

四、学校長若クハ首席教員謹テ勅語ヲ奉読ス訖テ一同最敬礼ヲ行フ
五、学校長若クハ首席教員……規程ニ依リ誨告又ハ叙述ス
六、学校長教員及生徒一同唱歌ヲ合唱ス
七、右訖テ両陛下ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行フ
第四条 式日ニハ校舎内外ヲ清潔ニシ国旗ヲ掲クベシ
第六条 両陛下ノ御影並教育ニ関スル勅語ノ謄本ハ式場ニ格段ナル場所ヲ設ケ之ヲ奉置スベシ
第七条 学校教員及参列員ハ礼服ヲ着用スベシ

(「栃木県史 史料編・近現代八」)

 このようにして、以後国の祝祭日には勅語奉読と御真影拝戴の厳しゅくな儀式が挙行されるようになり、各学校においては常時、教師も生徒も勅語の暗唱に精進努力することが課せられたのである。
 これらの儀式は第二次大戦が終る昭和二十年まで続けられた。
 なお政府は、日露戦争後の世相のゆるみを是正し、国体の危機に対処すべく、明治四十一年(一九〇八)「戊申詔書」を発布したのである。
 これは教育勅語の主旨達成を基本として、さらに国民精神の涵養・作興に努力するよう国民生活の方向を示し、修身科を重視して小学校五年以上の生徒には詔書の全文を唱読させたのである。
 御真影拝賀式の様子について、同三十二年(一八九九)の「佐久山町役場日誌」には、次の記事がのっている。
 
一月一日 天気 好
一 佐久山[尋常高等]小学校ニ於テ御真影ニ対シ拝賀式ヲ行フ 会スル者高橋助役以下役場員、町会議員、区長、学校教員、学務委員、学校嘱託医、生徒卒業生、裁判所書記、軍人、神官、僧侶、生徒ノ父兄其他有志人民凡百名以上ナリ、式終リタル後ニ楷下ニ於テ神酒及供物ヲ戴ク者凡二百余名、高橋助役ノ発音ニテ両陛下皇太子殿下ノ万歳ヲ三唱シ併セテ新年ヲ祝賀シ各終事退散
一 午後有志ノ新年宴会ヲ関谷ニ開ク、会スル者凡三十一名。