このような時に、親園村では第一一五回議会(明治四十一年二月)において、宇田川小学校を増築するよりも、親園小学校と統合し、村の中央の下ノ原に新築すべき旨の議題が上提され審議されている。審議経過は不明であるが、結局この議案は否決され、二校の存立が決定されたようである。
しかし、これに不服の小林鶴次郎他二名の村会議員は、意見書を村会議長に提出し、「…二校を存置することは本村の経済上の不備であると信ずる……二校を完備させることは不可能である……二校を本村のやゝ中央の字下ノ原に移転し、以て完全な学校を改築し……速やかに移転して一校の基に、均一の教育を授け、児童の知識発展をはかり、速やかに本村の膨張を……」と述べている。
意見書
本村第百十五回議会ノ際大字宇田川小学校々舎ヲ増築シテ義務学年ノ延長ト共六学級ニ拡張シ度キ旨該大字ノ願書ト共ニ村長ヨリ提出セラレ各員ノ意見ヲ聴スルニ早晩本校ノ増築及敷地買上校舎及運動場葺換等ハ免カレス相互ニ費用ヲ投スルヨリ寧ロ字下ノ原ニ移転シテ永遠ノ経済ヲ測ランコトヲ鑑ミ各字意向ヲ求メ即チ二月二十一日ヲ期シ委員会ヲ開カル各字議員及委員ノ意見ヲ徴セラレタリ然ルニ移転ヲ否トシ二黌存立ヲ可トシテ其会ヲ閉チタリ因ニ二校ヲ存置スル本村経済上ノ不備ナリト信ス何トナレバ双方完備セシムルハ不可能ナリ存続スルハ畢竟将来ノ流弊ヲ救ヘ難キ至ラン希ハ双方ヲ本村稍中央ナル字下ノ原ニ移転シテ以テ完全ナル黌舎ヲ改築シテ衛生ヲ遮ケ教育ヲ進メ経済ヲ補ヒ速ニ改革ヲ掲ケ併黌スルハ急務ナリト信ス算フルニ一ケ年ノ教育費スラ尠ナカラザルニ之ヲ永遠ニ加算セバ無益ノ経費ヲ投シ或ル一授ヲ形式ニ終ラシムル遺憾ナリ速ニ移転シテ以テ一校ノ基ニ均一ノ教育ヲ授ケ児童ノ知識発展ヲ謀リ速ニ本村ノ膨脹ヲ掲ケン事ヲ
右提出候也
明治四十一年三月十九日
本村第百十五回議会ノ際大字宇田川小学校々舎ヲ増築シテ義務学年ノ延長ト共六学級ニ拡張シ度キ旨該大字ノ願書ト共ニ村長ヨリ提出セラレ各員ノ意見ヲ聴スルニ早晩本校ノ増築及敷地買上校舎及運動場葺換等ハ免カレス相互ニ費用ヲ投スルヨリ寧ロ字下ノ原ニ移転シテ永遠ノ経済ヲ測ランコトヲ鑑ミ各字意向ヲ求メ即チ二月二十一日ヲ期シ委員会ヲ開カル各字議員及委員ノ意見ヲ徴セラレタリ然ルニ移転ヲ否トシ二黌存立ヲ可トシテ其会ヲ閉チタリ因ニ二校ヲ存置スル本村経済上ノ不備ナリト信ス何トナレバ双方完備セシムルハ不可能ナリ存続スルハ畢竟将来ノ流弊ヲ救ヘ難キ至ラン希ハ双方ヲ本村稍中央ナル字下ノ原ニ移転シテ以テ完全ナル黌舎ヲ改築シテ衛生ヲ遮ケ教育ヲ進メ経済ヲ補ヒ速ニ改革ヲ掲ケ併黌スルハ急務ナリト信ス算フルニ一ケ年ノ教育費スラ尠ナカラザルニ之ヲ永遠ニ加算セバ無益ノ経費ヲ投シ或ル一授ヲ形式ニ終ラシムル遺憾ナリ速ニ移転シテ以テ一校ノ基ニ均一ノ教育ヲ授ケ児童ノ知識発展ヲ謀リ速ニ本村ノ膨脹ヲ掲ケン事ヲ
右提出候也
明治四十一年三月十九日
親園村会議員 小林鶴次郎
同 国井徳松
同 増渕良三郎
親園村会議長 関谷倉次郎 殿
(親園・第一)
この意見書がどのように処理されたかは不明であるが、両校ともそれぞれ現存し、一〇〇年の歴史を誇り、幾多の人材を世に輩出しているのである。
賛否いずれの意見も、村の発展を願う心から出たものであり、ここに当時の村人達の郷土愛が感じられるのである。
昭和二十二年四月、親園小学校の校舎の一部を仮校舎として開設された新制親園中学校は、同三十三年四月八日、独立した校舎が完成し、現在に至っているがこの地域は、以前から下ノ原と呼ばれている所である。現在、親園小学校と宇田川小学校からの生徒が入学し学んでいる。