かくして、大田原町上町(場所不明)に仮教場を開き、助手三、四名と共に学生を教授することとなった。同十年以降になると、毎日通って来て学ぶ生徒が数十名にもなり、私塾として発展していった。
同十四年(一八八一)印南嵐は私立学校を興そうと企図し、中田原温泉山西麓の自宅邸内にある離れ家を開放して、興風学校と称する塾を開いた。
遠方からの生徒には、離れ家を寄宿舎(兼教場)にあて、家族と同じく扱い、行住坐臥にあふるるばかりの温情と崇高なる気迫とをもって薫陶したといわれる。
同二十一年(一八八八)、私立興風学校として公認され、遠近各地の小学校を卒業した青少年が来て学ぶようになり、塾はあふれるばかりの活況を呈したと伝えられる。
学校の教科目は、国学・漢学・数学・英学・詩文の五科目である。当時の一般私塾では、漢学を主として教授したのであるが、印南嵐は神官の家に生まれたので皇道を学び、和漢両学を兼修して、尊王愛国の精神を養成することに重きを置いた。また、英語を加えたことは驚きと同時に達見であった。
教師は、国学・漢学・詩文の三科は印南嵐、数学は北条直温、英学は鴇巣某が教授した。
興風学校の教育方針は、前記の尊王愛国であり、経営は、生徒からの月謝や授業料は徴収せず、一切の経費は自ら負担し、常に清貧に安んじて子弟の教育に生涯を捧げたのであった。
同三十五年(一九〇二)四月、県立大田原中学校が設立されるに至って、印南嵐の高齢のゆえもあって、惜しまれつつ廃止した。
大正五年(一九一六)徳風を慕う門人達により、翠嵐先生追慕の碑が大田原神社の境内に建てられた。
碑文には「私開興風塾、下帷授業、其設科皇漢為経緯、以講忠孝之義、英語為羽翼以養時務之材、従遊者前後三千余人」とあり、教科内容や門人の数をはじめ、建立した門下生、友人達の氏名が刻んである。
碑文から当時の学校の様子をうかがうことができる。
(「改定大田原読本」、「栃木県教育史三巻」)