栃木県立大田原中学校

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大田原中学校創立について、「栃木県教育史」により概略を記すと次のとおりである。
県北に中学校をとの要望が、大田原町および近接町村の識者間にようやく高まり、当時の大田原町長大田原徳盈がその中心となって東奔西走し、遂に創設委員会を結成して鋭意これが貫徹に向って努力した。こうした人々の熱意は遂に当局を動かし、明治三十四年(一九〇一)二月十六日、文部省告示第三一号を以て、大田原町に中学校を設置する旨の公示となり、四月四日、大田原小学校において、本校最初の入学試験が施行され、生徒一〇〇名の入学が許可されたのである。
 いよいよ待望の中学校開設というので、受験生の地域は那須郡一四三名を筆頭に、塩谷三九名、河内郡一六名、その他七名という広範囲にわたり、年齢もまた一三歳から一八歳までの多きにおよぶ状態であった。
 初代尾河校長は、大田原町成田町の天理教会々堂を仮校舎とし、四月十九日開校式を挙行、翌二十日より直ちに授業を開始した。この四月十九日こそ、本校誕生の日として永久に記念すべき日となったのである。
 五月十五日、新築の校舎一棟と雨天体操場とが落成したので、早速仮校舎から移転したが、何しろ草創のこととて、校具の一切を新しく整備せねばならない有様で、その苦心のほどは言語に絶するものがあったらしい。校地は、紫塚九、八七四坪、城親元の寄付によるもので、当時としてはまことに広大で、校庭に立てば、竜北山の丘を隔てて遠く那須・百村・高原の連山を仰ぐことができ、四周また人家まれで、まことに若人たちの学び舎として理想的な場所であった。
 生徒の増加に伴い、同三十七年(一九〇四)五月には教室一棟、生徒控室の増築があり、同三十九年十二月さらに博物教室、図画教室の一棟が竣工、同四十一年十二月六日には講堂及び事務室・校長室・特別教室を含む一棟が新築されて、一応校舎の完成を見、県北唯一の中学校として、内容外観ともに著しく整備されたのである。これが現在の大田原高等学校に発展したのである(「栃木県教育史四巻」)。
 「栃木新聞」(昭和五十三年三月六日付)を要約すると、当時のもようを次のように記している。
 栃木県第五中学校を大田原地方に誘致しようと、強力な運動を繰り広げたのであるが、地元で建設資金と用地を負担することが条件となっていたのである。
 地元負担は建設資金五、〇〇〇円(当時米一俵六〇キログラム 三円八〇銭)と用地三三、〇〇〇平方メートルという巨大なものであった。そこで地元では、負担金を集めることになり、同三十三年(一九〇〇)から寄付金集めに着手した。当時の第五中学校建設寄付帳によれば、大田原地方をはじめ、那須郡・塩谷郡・南那須の県北一帯、遠くは宇都宮方面まで寄付金集めに駆け回ったようすが記されている。
 寄付金の最高は二〇〇円で、平均は一五銭、用地代と建設資金を合わせて、八、一七一円五〇銭を集めるのに、三年間もかかっていることからみて、血のにじむような苦労があったことをうかがうことができる。
 当時のことであるから、徒歩によって目標達成のため、五円、一〇円という募金を行い、ほとんどが労力奉仕によるものであった。それでも募集経費を差し引くと、一五〇円不足したとあるところから見て、その苦労は並大抵ではなかったようである。

大田原中学校寄付関係簿(大田原高校所蔵)

 次に示す書状や日記は、中学校建設寄付に関わる貴重な資料であるので、参考に供したい。
 
   謝辞
大田原第五中学校ハ、明治三十三年五月本町有志発起者トナリ、近町村有志ノ賛成ヲ得テ、敷地一万坪ト、金五千円寄附ノ主旨ニテ、本町ニ設置セラレンコトヲ請願シタリ、而シテ敷地ハ、字富士山下外二ケ所中ノ目的ナリシニ、其筋ニ於テ実査ノ末、字紫塚ハ土地高燥東北ニ小丘ヲ帯ビ、西南ハ田圃ニシテ平坦広潤、衛生上最好ノ地ナリトテ、寄附地ニ指定セラル。君之ヲ聞テ、該地ニ介在セル畑一町二段歩余、及道路敷地ノ寄附ヲ快諾セラレタリ。校舎ハ客年三月竣工、今ヤ二年生ヲ収容セラル。本町将来直間ノ福利鮮少ナラザル知ルベキナリ。語アリ、真実中ノ真実ハ愛ナリト。君父祖ノ遺産ヲ割テ此美挙アルハ、愛町ノ念渥キニ非ズンバ焉ンゾ克ク為スヲ得ンヤ。茲ニ蕪詞ヲ呈シ感謝ノ意ヲ表ス。希クハ納レヨ。再拝。
  明治三十六年八月五日

                                中学校設立委員長 藤田吉亨
   城親元 殿
(「大高七十年誌」)

 この書状からみると、当地大田原にはすでに明治三十三年(一九〇〇)当初から、県立中学校の誘致運動のあったことが判明する。それは一万坪の敷地と、現金五、〇〇〇円の地元負担寄付金を条件としての誘致運動であった。その敷地の候補地としては、初めは富士山下ほか二か所があって、揺れ動いたようである。しかし結局現在の紫塚の地に決ったのであるが、書状に「其筋ニ於テ実査ノ末」とあるのは、おそらく県役人の実地調査の結果であったと思われる。
 県立中学校の誘致運動が、前述の如き条件を伴う運動だとすれば、それは当然町長がその中心に立っているはずである。次の書状は、それを端的に示しているものとみられる。大田原旧城主大田原一清氏(但し家扶代筆)の、大田原中学校設立寄付金納入時期延期の願い状である。
 
拝啓益々御清栄奉賀候。陳ハ過日御出京ノ砌大田原中学校寄附金之義御申出ニ対シ速ニ御承諾相成、而シテ其納付方ニ於テハ、種々御都合モ有之候為メ、特別ノ条件ヲ付セラレ度旨御懇談被為在候。次第ハ貴所ノ御領承被成候義ニ有之候モ、其詳細ハ御帰町ノ上御申出之筈ニ候処、此程大田原町長ヨリ三分一ハ本月中、他ハ三月及四月ノ両期ニ願度、折柄其御所有地収納金壱百余円有之、右ハ彼此手数ノ煩ヲ避ケ、便宜上該金ヲ直ニ御納入可然云々。依テ該金ハ第一回払込トシテ差支無之候間、其様御取計決算書領収書等御回送可被下候。然ルニ第二回以後ノ義ハ、何分当今ノ場合、連日引続キト申ス御都合ニハ到底難相成、夫レガ為メ予メ内輪ニ御懇談モ有之候次第ニ付、他ハ本年末歳費御入手之時マデ、是非共猶予致呉候様、切ニ町長ヘ御協議方貴所ニ御依頼致度、此条命ニ依リ申進候也。

    明治三十六年二月二十八日
                                       大田原家々扶
   藤田吉亨 殿
   大田原徳盈 殿
(「大高七十年誌」)

 各町村における当時の様子については、明治三十三年五月の「佐久山町役場日誌」の記事によると次のように記されている。
 
五月四日
一、中学校ヲ大田原ヘ建設献議致度ニ付有志ノ賛成ヲ得度旨ヲ以テ安藤直一、小口融四郎、増子甚四郎等来ル
五月六日
一、中学校設置事件ニ付有志ノ相談会アリ。
五月八日 曇ル
一、中学校設置事件ニ付郡長ノ招集ニ依リ高橋助役出張ス然ル処今般大田原町ニ於テ金二千円ニ地所二丁歩ヲ献納シ該町地内ニ設置致シ度旨ニ付最寄九ケ町村ニテ金三千円ヲ寄付致シ呉レヘキ旨ヲ以テ戸数人口ニ当リ其金額等ヲ示セシヲ以テ右ハ郡長ノ扱トシテ一部ノ町村長ノミニ寄付ヲ談スルハ不都合ニ付其否ヲ挙テ喋々弁論セシテヲ以テ右郡長示談ノ趣ハ終ニ取消ニ相成単ニ大田原町長ノ無心ニ因リ各自一己ノ氏名ニテ賛成スルコトニ相成願書ヘ連署スルモ費用金五千円ハ大田原ノミニテ差出九ケ町長ヘハ特ニ其費金割ヲ掛ケサル旨ノ証書ヲ徴シ一通ハ親園村長一通ハ東那須村長預リ居ルコトニ相成解散ス但而後佐久山町其他ニテモ設置出願スルハ随意ノ筈ナリ当日出席ハ高橋佐久山町助役、伴親園村長、渡辺野崎村長、品川西那須村長、狩野村長、東那須村長、矢吹金田村長、湯津上書記、大田原町長其他有志者飯村、若林、小口、久利生、増子外ニ高瀬県会議員、西山馬頭町長等ナリ夜ニ入リ宴会ノ席ヘハ塩谷選出大門県会議員モ出席ス。

(佐久山・第三〇)

 女子教育については、明治八年(一八七五)栃木町薗部町に栃木女学校が創立された。これは女児就学の督責として、女児小学の開設を実施したもので当初は女児小学の程度であったが漸次名称や教育内容等が改められ、これが模範となって以後県内各地に女学校が設立され、後年の高等女学校になっていったのである。
同十二年七月 栃木県第一女子中学校(現 宇都宮女子高校の前身)
同十四年   鹿沼女学校(女児小学)
同三十四年  下都賀郡立栃木高等女学校
同四十年   安蘇郡立佐野高等女学校
同四十二年  足利郡立高等女学校、大田原女学校と続々開校されていくのである。