明治四十一年(一九〇八)十一月十四日、時の大田原町長小口融四郎氏が、私立大田原女学校設立を志し同年十二月二十六日、栃木県知事中山己代蔵の認可を得て、私立初代校長に藤田吉亨を迎え、翌四十二年四月十日に開校したのが本校の出発である。
当時は校舎として、大田原町一六八番地の落合銈一郎氏の私宅(現田辺材木店付近)を借りうけ、裁縫および作法の授業を行ない授業がおわれば寄宿舎として使用された。また読み書きの普通の学科は、大田原尋常高等小学校の校舎の一部を借用して授業が行なわれた。因みに当時の教科目は、修身および作法・国語(読方・作文・習字)・算術・家事・裁縫・編物などであった。
なお学級の編成は、高等小学校卒業者によって構成される本科三年、尋常小学校卒業生からの専修科二年、他に八か月間を主として和裁を学んだ速成科、計百名を定員として発足したらしい。ただ、実状は当局者たちがわらじばきで近隣の学校や家庭を勧誘してまわったにもかかわらず、定員に満たず、記録によれば発足当時の四十二年度は本科(一、二年)二八名、専修科(一、二年)二八名、速成科二名計六六名に過ぎず、その内、年度の半ばで退学するもの一二名あり、結局五四名が全生徒数であった。
(中略)
なお、私立といっても経費は一二五〇円ほどで、有志の寄付もあったが、大田原町の町費でほとんど運営されていた。
(中略)
同四十四年(一九一一)三月、大田原町会において、私立大田原女学校を町立に移管することに満場一致で可決し、大田原町立実科高等女学校として発足することとなり、四月二十六日付で文部大臣の認可を得た。以後本日を本校創立の日と定めた……(中略)。
同四十五年一月、那須郡会において郡経営とすることに決議し、(中略)大正と改元された同年(一九一二)九月二十一日、文部大臣の認可を得て、同十月一日那須郡立那須実科高等女学校としての開校式を挙行したのである。
大正時代の大高女生(大田原女高提供)
大田原女高沿革史(大田原女高提供)
ちなみに、募集定員五〇名、修業年限は四か年、他に選科も設けられ、授業料はそれぞれ一円と七〇銭とであった。初め郡長谷誠之が校長代理をつとめた。このように体裁も設備も相応に充実してくるとともに、和服にえび茶の袴姿は近郷近在の女性の憧れの的になり、当局者は大いに意気込んで生徒募集を続けたが、当初の入学志願者はわずか一九名だったとのことである(以下略)。
(「大女高六〇年誌」)
那須郡大田原町五五〇番地
小口融四郎
明治四十一年十一月十四日付申請私立大田原女学校設立ノ件
認可ス
明治四十一年十二月二十六日
栃木県知事 中山己代蔵
(「大女高六〇年誌」)
以後、栃木県那須実科高等女学校、栃木県那須高等女学校、栃木県立大田原高等女学校、栃木県立大田原女子高等学校と名称が変更されて今日に至るのである。