臨時教育会議の方針

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明治四十年代(一九〇七~一九一二)のわが国の教育は、日露戦争の勝利による一般世相の緩み、勤倹力行の衰えがあらわれてきたため「戊申詔書」が発布されて、教育勅語を基本とする諸徳(誠実・勤勉・信義・堅忍・進取・修徳)を、特に修身科において重点的に教育することが、教育方針として指示され、国家主義的な統一性のある学校教育が行われた。
 大正時代に入ると、大正四年(一九一五)に第一次世界大戦が起り、わが国はこれに参戦した。この戦争によって国内は好況に恵まれ、停滞していた資本主義は急速に発展し、にわか成金が続出し、都市労働者の増加、企業の拡大など、国民の生活もこのような社会情勢とともに次第に変化し、これに伴って教育面においても改革の気運が生まれ、大戦後実施されることになった。
 同五年(一九一六)文部大臣岡田良平は、学制改革に着目し、翌年九月に「臨時教育会議」を内閣直属の諮問機関として設置した。
 同六年、「小学校教育ニ関シ改善ヲ施スヘキモノナキカ若シアリトセハ其ノ要点及方法如何」という諮問に対し、同会議からの答えとして、特に小学校教育の根本方針として具体的に次のようにあげている。
 
一、小学校においては、国民道徳の徹底を期し、児童の道徳的信念を鞏固にし、ことに帝国臣民たる根基を養うに一層の力を用うべきこと。

二、児童身体の健全な発達を図るため適切な方法を講ずること。

三、知識技能の教授において、児童の理解と応用を主とし、不必要な記憶によって心力を徒費する弊風を一掃すること。

四、諸般の施設および教育の方法は画一の弊風を脱して、地方の実情に適切ならしむべきこと。

 右のことがらは戦後の世相にかんがみて、教育振興の問題として極めて重要なものであった。これらの方針は直ちに地方に訓示され、各町村の小学校において実施されていったのである。
 ここで同十一年(一九二二)の大田原尋常高等小学校の教育方針について、当時の「学校概要」から抜粋し記す。なお、他の学校もほぼ同様であった。
   大正十一年学校一覧表五月三十一日現在教授上の要項
   教材の精選、教材を郷土化すること、教授事項の徹底、自働的学習の奨励、応用力の涵養
  訓育上の要項
   イ敬神崇祖、従順規律、清潔整頓、正直、親切、礼儀、勤勉等の良習慣の養成
   ロ公徳を重んずる気風の養成
  体育上の要項
   イ運動を奨励して体力の鍛練身体発育の助長をはかる
   ロ質実剛健の気を練り規律共同の精神を涵養す
   ハ学校衛生疾病瘡傷等の予防
  将来施設上の要項
   1教授方面―教材並に教授法研究会学芸練習会尋四以上朝の自習
   2訓育方面―会礼神社参拝、月末大掃除、左側通行、常備所持品の励行
   3体育方面―遊戯体操練習会、運動会、強行遠足、身体検査、トラホーム検診
   4その他―記念講演会、同窓会父母会
  本年度行事
   イ理科実験設備の完成
   ロ貧困児童の救済
   ハ出席歩合の増率
   ニ実業補修学校の振興
(学・第一)

   大正十年八月十一日
                                  大田原町長 若林五郎平
  那須郡長 柴田四郎 殿
   校訓の有無御照会の件左記及回報候也
      記
  学校数一 校訓を有する学校一
    校訓左記の通り
  一 父母教師の教へにしたがえ
  二 礼儀を守れ
  三 すべてきまりをよくせよ
  四 よく励みよく遊べ
  五 正直にして親切なれ
(学・第一)

 なお中等学校においては、兵式体操に関する建議によって、大正十四年から陸軍現役将校の学校配属制度が実施されることになり、軍事教練が発足するのである。