奉安殿と学校

1092 ~ 1094
昭和の初期になると世界恐慌の波がわが国にも押しよせ、国民経済は不況にあえぎ、国民の生活は困苦の状態が続くようになった。
 このようなとき、昭和六年「満州事変」が起り、以後わが国は中国への武力進出を開始する。国家体制はしだいに戦時体制に移り、教育の方向も戦争遂行のための要請に基づいて、各種の法令改正が行われ、勤務・実践・鍛練の強化・忠良な帝国臣民の養成がはかられるようになった。
 各学校では、天皇皇后両陛下の御真影を安置するため、学校の敷地内で最も適当な場所を選んで「奉安殿」を建設した。
 御真影は金庫の中に納められ、奉安殿は、学校の聖域として奉られ、全職員・生徒は登下校の時はもちろんのこと、行事や式典の際には不動の姿勢でかならず最敬礼を行ったのである。そして教育勅語と共に学校の教育活動の中で重要な意義をもったのである。
 第二次大戦終戦(昭和二十年)になるとこれらは禁止され、その結果として、勅語奉読の禁止、焼却、御真影の県への奉還、奉安殿の解体等ということになった。
 次の資料は、奉安殿認可書と御真影奉還ならびに拝戴の様子であるが、これは各校とも同様であった。
 
 栃木県指令教第一七七一号
                              那須郡金田村
昭和十一年六月二十九日付第三一〇七号申請、其ノ村尋常高等小学校へ御真影奉安所建設ノ件認可ス
  昭和十一年八月六日
                                 栃木県知事 松村光磨
(金田・第七三)

  第二八二号
   昭和六年一月十七日                       大田原町長 川上利一
    各区長 殿
今般当小学校ヘ御下賜ノ御真影ヲ左記ノ通リ奉還並ニ拝戴ノコトト相成候ニ就テハ当日各戸国旗ヲ掲揚シ尚御真影奉持自動車ニハ国旗ヲ交叉シアルヲ以テ途上不敬ニ渉ラサル様御区内一般ニ周知方可然御取計相煩度及通知候也

     左記
  奉還 一月二十一日午前九時三十分中女小各小学校出発西那須野駅ニ向フ
  拝戴 一月二十三日午後三時八分西那須野発各学校ニ向フ
月日自各学校自西那須野駅自宇都宮駅
至西那須野駅至宇都宮駅至県庁
奉還
一月二十一日(水)
午前九時三十分小学校、中学校、女学校ヨリ各別ニ自動車ニテ出発成田山附近ニ於テ一団トナリ西那須野駅ニ向フ午前十時三分 西那須野駅発午前十一時五分 宇都宮駅発
午前十一時四分 宇都宮駅着午前十一時十五分 県庁着
拝戴
一月二十三日(金)
午後三時十五分 西那須野駅発別々ニ自動車ニテ各学校ニ向フ午後二時一分 宇都宮駅発午後一時四十分 県庁発
午後三時二十分 学校着午後三時八分 西那須野駅着午後一時五十分 宇都宮駅着
(学校・第六)