決戦下の学校生活

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昭和十二年、日中戦争、同十六年、太平洋戦争と、いわゆる第二次世界大戦に突入し、わが国の戦争体制は一層強化され、国内の人員・物資・すべてが戦争遂行のために動員されるようになり、国民の生活や個人の自由も一切国家のために奉仕することになっていったのである。
 学校教育においても、決戦体制の下にますます「非常の戦時教育体制」をとることになった。
 次の資料は、戦時中の運動会のプログラムである。ザラ紙に五九種目が印刷されている。そして、徒歩競走以外は、戦争完遂の国策を反映する競技内容が、たくさん登場していることからみて、戦時体制下の色彩を強調した国民学校の運動会であったことをうかがい知ることができよう。
   春季大運動会番組 大田原国民学校
   昭和十七年五月十日於校庭 午前七時集合、七時半開始
種目学年種目学年
大砲奪い五男建国体操二、三、四
胡蝶決戦譜五女日の丸行進曲五女
聖戦高一女特別攻撃隊三男
攻防戦六女大政翼讃の歌四女
薙刀高二女剣舞高一女
敵前上陸六男敵機撃滅高二女
落下傘降下三女剣道五六男
銃剣術青学航空日本の歌五以上女
進め一億六男戦友四女
敵艦見ゆ高二男野戦攻城五男
騎兵戦四男野試合高一男
みんな兵士だ弾丸だ六女
(大田原小学校所属)

 同十八年、教育の「戦時非常措置方策」が決定され、翌十九年には「決戦非常措置要綱」に基づいて教育の非常措置が実施され、同二十年五月には「戦時教育令」が公布され、本来の常時の教育活動はほとんど停止されることになったのである。即ち、国民学校初等科を除いて学校の授業は同二十年四月一日より、翌二十一年三月三十一日まで停止することとし、生徒は国民防衛や、生産に従事することになった。
 このように戦争が激化するに伴い、軍需工場への学徒動員、軍事訓練の強化、防空演習、小学生高学年以上の勤労奉仕(農家への奉仕作業など)、食糧増産(原野荒地の開墾)、中等学校の学校工場、体力増強、特に男子においては、滑空訓練、海洋訓練等が実施され、戦争貫徹のための訓練や作業が日課の重要な内容となり、なかには兵役に志願して戦線に出て、特攻隊に参加したものもいた。
 また、佐久山国民学校、大田原国民学校へは日本陸軍の本土防衛部隊の軍隊が駐屯することとなり、学校の兵営化が行われた。
 このころ、佐久山町伊東木材工場には海軍の松根油工場が設けられ、町民が山林から掘り出した松の根から、油を採取する作業が進められた。それらの当時の労力奉仕は小学生によるものであった。松根油とは飛行機の燃料にしたものである。
 日本本土への空襲が激しくなった同十九年六月、政府は「帝都学童集団疎開実施要項」を決定して、国民学校初等科三年以上六年までの縁故疎開以外の児童を、保護者の申請によって東京都区部から、近接県の地方農村へ疎開させた。後に強制集団疎開となるが、いわゆる学童集団疎開で本市域関係の割当は第10表のとおりである。
第10表 学童集団疎開表(昭和一九・八・一〇現在)
町村名場所名称収容人員疎開学校名転入見込月日受入学校名
親園村(100)大字花園福原覚二二〇湯島国民学校19・8・18親園国民学校
長泉寺四〇
〃 宇田川成就院三〇宇田川国民学校
室井又雄一〇
佐久山町(210)大字佐久山実相院五〇佐久山国民学校
関谷旅館二〇
煙草収納所四〇
〃 福原金剛寿院一〇〇福原国民学校
金田村(150)大字富池成就院三〇元町国民学校19・8・20市野沢国民学校
〃 岡青年会館四五
〃 小滝妙徳寺七五
野崎村(130)大字薄葉高性寺三〇千駄木国民学校野崎国民学校
〃 上石上全超寺五〇石上国民学校
法善寺三〇

 児童達は、家庭を離れて、寄宿の場所で疎開側学校から一緒に来た教師・寮母・看護婦・作業員・寮務嘱託等と起居を共にし、学習を行い前記受入学校へ通学もしたのである。
 同二十年八月十五日、終戦となり翌九月ころより東京へ帰校し、やがて疎開体制は終るのであるが、次の文書は東京都内の疎開側学校から、金田村疎開先関係への礼状などである。
拝啓、学童集団疎開に関しては格別の御益を賜わり殊に附帯設備に就いては、資材並に人件共に困難の折柄にも拘らず非常な御配慮を辱(かたじけな)うし誠に難有く厚く御礼申上候、御蔭を以て来る八月二十九日午前五時二〇分上野発列車にて御地に疎開の運び相成候に付、何分共宜しく御願申上候、先は右御扱御礼旁々御願まで

                                           敬具
    昭和十九年八月二十五日
                              東京都元町国民学校長 折茂幾太郎
   金田村長 室井要 殿
(金田・第二一五)

謹啓、時下戦局重大の秋愈々御健勝の段奉賀上候、陳者今般本区学童集団疎開実施に際しては、公私御多忙中にも不拘何かと御配慮相煩し御蔭を以て滞りなく完了仕り候儀偏に貴職始め関係各位の一方ならぬ御尽力の賜と奉深謝候、殊に学童入村に際しては態々御出迎下され且御懇情溢るゝ御接待に与り候趣御厚情洵に忝なく父兄は元より関係者一同只管感謝感激罷在候、素より本事業今後の運営に関しては一に懸って地元各位の終始変らぬ御協力無之ては到底所期の目的を達し得ざるものと確信致候、就ては今後共一層の御援助賜はり度此段特に奉悃願候、疎開完了と同時に早速拝趨御礼申述ぶべき筈の処刻下の情勢下不已得不取敢以書中御礼の御挨拶申上度如斯御座候

                                           敬具
   追て貴村関係各位に対しては貴殿より御鳳声賜はり度願上候
    昭和十九年八月三十一日
                                 東京都本郷区長 山崎平吉
   金田村長 殿
(金田・第二一五)

    昭和十九年九月一日
    戦時学童集団疎開学園成就院班
                                      主任 中西金太郎
   金田村長 室井要 殿
    疎開児童報告ノ件
   首題ノ件左記ノ通リ報告候也
         記
  疎開場所及受入主人名 栃木県那須郡金田村大字富池 斎藤隆典
  疎開日 昭和十九年八月二十九日
  疎開学校名 東京都本郷区元町国民学校
  疎開所先生氏名及生年月日
      中西金太郎 大正七年九月十五日
      滝沢和子  昭和二年一月三十日
  寮母  窪田喜代子 大正十二年五月十日
  作業員 高藤初枝  大正五年十一月二十二日
   同  前田ヒサ  大正七年十月七日
   学童氏名    成就院班
柴井賢二昭八・九・一〇安藤博子昭八・九・二五
川村敏雄〃八・一一・二一伊藤恵子〃八・六・一五
松田保彦〃九・三・二一小田切和子〃八・一〇・三〇
石川満〃九・三・一三坂井善雄〃一〇・一〇・一九
角谷博明〃八・九・一〇野呂和道〃一一・二・一七
木幡雄一〃八・一一・一〇松崎稔〃一〇・一一・二
島村義明〃九・二・二七及川玲子〃一〇・一〇・二八
今野谷総一郎〃九・一・一四石山和也〃一一・二・二
計 二十八名
(金田・第二一五)