昭和に入り、この地に陸軍の演習場(演習場は一四師団設置以来)及び飛行場が建設され専ら国土防衛のため重要な役割を果たすところとなる。
日中戦争・太平洋戦争の激化に伴い、飛行場は拡張の止むなきに至り、そのために小学校移転の運びとなるのである。昭和十七年現在地に小学校を移転することになり、当時は交通量も僅少であったため、山林を切り開き県道を横断して、全校舎をそのまま引きよせて移転したということであるが、近代的な機械もなく、人力依存の当時の仕事としては、大変苦労が多かったということである。
同二十年八月八日、午前七時ころ、アメリカ軍の空爆を受け、校舎は全焼し大きな被害を受けたのである。しかし登校前の空襲であったので、児童に被害の皆無であったことは不幸中の幸いであった。爆弾は、現在の玄関付近に投下され、大爆音とともに校舎はふっとび、一瞬にして灰じんと化し、引き続いて那須神社参道付近は機銃掃射を浴びせられ、住民は命からがら逃げ回ったが、住民の一人が尊い犠牲となったということで、まさに恐怖の一日であったということである。当時の人達の言によれば、学校と兵舎を間違って爆撃したのではないかともいわれている。したがって、古い重要書類や校旗などもその時に焼失したものと思われ、現在見当らない。
戦後になって、金丸校は同二十年九月二十五日、元青年学校物置、職員住宅を仮教室とし、南北会館特設隊事務所を第二仮教室として分散授業を開始する。同年十月十一日飛行隊兵舎に移転して授業を続行する。同二十一年、「戦災学校復興法」の適用を受け、起工式を行い、同二十二年現在の校舎が完成し、金田村立金丸小学校となる。
現在の校舎は、焼失前の校舎の設計と全く同じである(「学校の生い立ち」中村久也、「しのはら」二二号 那須地区教育研究所)。