教育委員会

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第一次アメリカ教育使節団の勧告、教育刷新委員会の答申を経て、昭和二十三年七月十五日教育委員会法が公布され、教育行政の地方分権化、教育行政の独立と専門化などの措置に即して、合議制の行政機関として設置された。
 都道府県及び大都市は同年十一月一日に、その他の市町村においては、その後の改正で、同二十七年十一月一日より発足することとなった。
 委員の選出方法は公選制であったが、同三十一年公選教育委員会制度は廃止され、以後地方公共団体の長が任命し、議会の承認を得るという、任命制に改正されたのである。
 同二十七年当時は、まだ町村合併が実施されなかったので、大田原町・親園村・金田村・野崎村・佐久山町にそれぞれ教育委員会が設置された(委員五名、うち一名は議会より選出)。
 教育長は数か町村の連合教育長として兼務する者もあったのである。
 町村合併前の教育委員は次のとおりである(○教育委員長◎教育長以下同じ)。
 
  大田原町 ○細小路丑松、藤田好文、伊藤安雄、桑原貫善、田中八左衛門、◎林伊勢吉
  親園村 ○越井金市、高橋勇、関谷正、佐藤要、小針太治、◎阿美秋二郎
  金田村 ○小田部秀雄、古内豊、永山清、磯秋吉、松田芙容、◎林伊勢吉
  野崎村 ○池島仙之丞、関谷茂、相沢猛、小野崎要、斎藤捷一、◎阿美秋二郎
  佐久山町 ○島崎覚兵衛、村上三千三、佐藤弘海、本橋市太郎、山口栄市、◎阿美秋二郎
 昭和二十九年、「町村合併促進法」によって、大田原市(大田原町、親園村、金田村)が誕生し、同年野崎村東半、翌三十年、西那須野町加治屋区を編入、佐久山町が合併するに至って、現在の行政区域となり、町村ごとに設置されていた教育委員会は発展的に解消となり、大田原市教育委員会が設置されたのである。
教育委員長教育長
初代福田美男二九・一二~三〇・三細小路丑松二九・一二~三一・九
二〃藤田好文三〇・三~三〇・一一黒尾東三一・一〇~三二・三
三〃長島清宇三〇・一二~三一・九関谷正三二・四~三二・九
四〃池島仙之丞三一・一〇~三四・九関谷正三二・一〇~三六・九
五〃池島仙之丞三四・一〇~三六・一〇伴忠夫三六・一〇~四〇・九
六〃黒尾東一三六・一〇~三七・九伴忠夫四〇・一〇~四四・九
七〃黒尾東一三七・一〇~四一・九伴忠夫四四・一〇~四八・九
八〃黒尾東一四一・一〇~四三・九増渕五郎四八・一〇~五二・九
九〃熊田幸治四三・一〇~四五・一〇増渕五郎五二・一〇~五六・九
十〃熊田幸治四五・一一~五一・九増渕五郎五六・一〇~
十一〃小倉正朝五一・一〇~五三・九
十二〃小倉正朝五三・一〇~五五・一一
(「大田原市教育委員会資料」)