従って、従来の青年学校は廃止となり、同二十五年度をもって旧制中等学校も廃止となり、新制高等学校に切り替えられることとなった。
本市内の「新制中学校」は第2表のように設置された。
第2表 新制中学校 |
校名 | 開校・位置 | 生徒数 | 職員数 | ||||
一年 | 二年 | 三年 | 合計 | ||||
大田原町立大田原中学校 | 昭和二十二年四月二十八日 | 四一八 | 三〇五 | 八九 | 八一二 | 二六 | |
大田原小学校の一部、推譲館を仮校舎として開校。 | |||||||
親園村立親園中学校 | 〃 二十二年四月十六日 | 一四三 | 一二一 | 五一 | 三一五 | 一二 | |
親園小学校の一部校舎を借用して開校。 | |||||||
金田村立金田中学校 | 本校 | 〃 二十二年四月二十八日 | 一三九 | 一〇七 | 五九 | 三〇五 | 一一 |
市野沢小学校の一部校舎を仮校舎として開校。 | |||||||
羽田分校 | 〃 | 五八 | 三〇 | (本校へ) | 八八 | 四 | |
羽田小学校の一部校舎を仮校舎として開校(一、二年のみ) | |||||||
金丸分校 | 〃 | 六四 | 三八 | 一六 | 一一八 | 四 | |
熊谷飛行学校金丸分校兵舎を仮校舎として開校。 | |||||||
奥沢分校 | 〃 | 六六 | 四八 | 二九 | 一四三 | 五 | |
奥沢小学校の一部校舎を借用して開校。 | |||||||
野崎村立野崎中学校 | 〃 二十二年四月二十九日 | 一三六 | 一二〇 | 四八 | 三〇四 | 八 | |
野崎小学校内青年学校校舎に開校。 | |||||||
佐久山町立佐久山中学校 | 〃 二十二年四月十六日 | 一〇八 | 一〇一 | 五九 | 二六八 | 一〇 | |
佐久山小学校の一部校舎を借用して開校。 |
この表からわかるとおり、発足当初の新制中学校は、いずれも小学校の校舎の一部を間借りしたり、旧軍隊の兵舎を仮校舎としたりして、開校したものであった。旧制中等学校に併設されたものは特に問題はなかったようであるが、町村設置の中学校は極めて悪条件の下に発足したことがうかがえる。
新制中学校草創期の様子について、「大中三十年誌」はその中で次のように述べている。
「昭和二十二年四月一日、新しく珍しい学校が発足した。その名を大田原町立大田原中学校といい、学校とは名のみで、校舎も無ければ先生も生徒もいない学校であった。この月の二十八日になって、新制中学校準備委員会の決定に従い大田原町国民学校の推譲館の一棟に生徒七五〇名と国民学校当時の先生、六・三型の新米先生、旧制県立大田原中学校の先生とが同じく小学校の講堂を借り受けて入学式を行って呱々の声をあげた。
一年生は、昭和十六年国民学校入学の一期生、二年、三年生は自由入学とした国民学校高等科一、二年生である。
校舎となった推譲館は明治二十五年(一八九二)に新築された大田原小学校の第一校舎で、小学校では一番古い校舎であった。
工作室、理科室、柔道室、剣道室、展示室等に使用されていた教室で、机、椅子も満足になく日中でも暗く、雨が降れば教室内に吹き込む始末、ある時は傘をさして授業を受けたことが思い出される。又柔道室には机はなく畳の上での学習であり、工作室の机は切傷だらけでノートもとることもできない状態であった。勿論教科書らしい教科書が配給されるようになったのは後のことである。
クラスの編成も最初は男女別々の編成で出発したが、六・三制では男女平等の理念から教育上男女共学で学習することとなった。
当時生徒間で呼ばれていたことは、「女は女らしく、男は男らしく」という言葉で次第に男女の対立が目立つようになった。ある先生の体育の時間には男女対抗のサッカーなどが飛び出したりしたものである。
先生方の努力も大変なもので、前記の教科書らしいものはなかったので、先生方が旧制中学校に見合うような内容のガリ版刷の印刷物が教科書となった。黒板一杯に指導の要点を書く先生、話し方だけで終る先生、それでも生徒は戦後の教育から何かをつかみとろうと一生懸命であった。
このような状態が続いたなかで翌二十三年十月現在の大田原中学校が旧中島飛行機製作所大田原工場跡の工事事務所を模様替えした校舎ができ、三年生六学級と一、二年生二学級の十学級が移され、さらに二十四年四月二十日より推譲館組が移転して一つの学校で授業を受ける事となったのである。以来今日まで多くの曲折と関係者の努力により、県北に誇り得る大田原中学校三十年の道をたどるのである。」
一年生は、昭和十六年国民学校入学の一期生、二年、三年生は自由入学とした国民学校高等科一、二年生である。
校舎となった推譲館は明治二十五年(一八九二)に新築された大田原小学校の第一校舎で、小学校では一番古い校舎であった。
工作室、理科室、柔道室、剣道室、展示室等に使用されていた教室で、机、椅子も満足になく日中でも暗く、雨が降れば教室内に吹き込む始末、ある時は傘をさして授業を受けたことが思い出される。又柔道室には机はなく畳の上での学習であり、工作室の机は切傷だらけでノートもとることもできない状態であった。勿論教科書らしい教科書が配給されるようになったのは後のことである。
クラスの編成も最初は男女別々の編成で出発したが、六・三制では男女平等の理念から教育上男女共学で学習することとなった。
当時生徒間で呼ばれていたことは、「女は女らしく、男は男らしく」という言葉で次第に男女の対立が目立つようになった。ある先生の体育の時間には男女対抗のサッカーなどが飛び出したりしたものである。
先生方の努力も大変なもので、前記の教科書らしいものはなかったので、先生方が旧制中学校に見合うような内容のガリ版刷の印刷物が教科書となった。黒板一杯に指導の要点を書く先生、話し方だけで終る先生、それでも生徒は戦後の教育から何かをつかみとろうと一生懸命であった。
このような状態が続いたなかで翌二十三年十月現在の大田原中学校が旧中島飛行機製作所大田原工場跡の工事事務所を模様替えした校舎ができ、三年生六学級と一、二年生二学級の十学級が移され、さらに二十四年四月二十日より推譲館組が移転して一つの学校で授業を受ける事となったのである。以来今日まで多くの曲折と関係者の努力により、県北に誇り得る大田原中学校三十年の道をたどるのである。」
(「大田原中学校草創期」益子孝治)
大田原中校舎落成式典
なお、次の史料は新制大田原中学校が大田原小学校より譲り受けた目録である。独立校舎の整備を急務としながら、校具や資材不足に苦労した当時の様子を物語るものといえよう。
譲受品目録
大時計一ケ、大火針二ケ、職員用机十五脚、同椅子八脚、ストーブ用煙突六ケ分、戸棚三組、ミシン一台、家事実習用机四脚、工作用机一脚、理科用机一脚、畳一畳、理科実験用起電機排気ポンプ等、教卓四脚、大ソロバン一ケ。
右の通り小学校より譲り受けました。
昭和二十四年四月十三日
大時計一ケ、大火針二ケ、職員用机十五脚、同椅子八脚、ストーブ用煙突六ケ分、戸棚三組、ミシン一台、家事実習用机四脚、工作用机一脚、理科用机一脚、畳一畳、理科実験用起電機排気ポンプ等、教卓四脚、大ソロバン一ケ。
右の通り小学校より譲り受けました。
昭和二十四年四月十三日
町立大田原中学校長 黒尾東一印
大田原町長 益子万吉 殿
(大田原小学校所蔵)