昭和四十六年一月一日定時制分離独立し、栃木県立大田原東高等学校として発足する。
「大東高十年誌」によれば、創立の由来について次のように記している。
昭和二十三年、新制高等学校発足と同時に全国に定時制高校が多数誕生した。三十年代後半より日本は著しい経済成長を遂げ、同四十年代に入って高度成長の絶頂期に入ったのである。
当時は、義務教育終了後職場で働く青少年が数多くあった。これ等勤労青少年達に対して「教育の機会均等」の理念の下に、なんとかして働きながら高校教育を受けさせたいというのが、県並びに地域社会の方々の熱望であった。県北に働きながら勉学する定時制高校がなく、地元で向学心のある勤労青少年の育成についての問題と、また地元産業への従業員の確保の必要性からも、ひいては人口流出を防ぎ、地域発展につながるとして、定時制高校開設が、商工会議所でも採り上げられたのである。
このような念願と温かい御支援とが実って、こゝ県北の地、大田原市に本校が設立されたのである。その建学の精神は、校章の「ペン」と「日の丸」が象徴している如く、「働きながら立派な学問教養を身につけて、日本の将来を担う有能な青少年を育成する」ことであった。
本校は初め、大田原女子高校に併置され、定時制普通課程夜間四年制、男女共学、一学級募集で第一回入学生は四十九名であった。
一回生が卒業する前年から校名改称の問題が起り、翌年更に学校の内外に問題が紛糾し、ついに昭和四十六年一月、県当局の裁断によって第二回生が卒業する直前に女子校からの分離独立が決まり、「栃木県立東高等学校」となったのである。
当時は、義務教育終了後職場で働く青少年が数多くあった。これ等勤労青少年達に対して「教育の機会均等」の理念の下に、なんとかして働きながら高校教育を受けさせたいというのが、県並びに地域社会の方々の熱望であった。県北に働きながら勉学する定時制高校がなく、地元で向学心のある勤労青少年の育成についての問題と、また地元産業への従業員の確保の必要性からも、ひいては人口流出を防ぎ、地域発展につながるとして、定時制高校開設が、商工会議所でも採り上げられたのである。
このような念願と温かい御支援とが実って、こゝ県北の地、大田原市に本校が設立されたのである。その建学の精神は、校章の「ペン」と「日の丸」が象徴している如く、「働きながら立派な学問教養を身につけて、日本の将来を担う有能な青少年を育成する」ことであった。
本校は初め、大田原女子高校に併置され、定時制普通課程夜間四年制、男女共学、一学級募集で第一回入学生は四十九名であった。
一回生が卒業する前年から校名改称の問題が起り、翌年更に学校の内外に問題が紛糾し、ついに昭和四十六年一月、県当局の裁断によって第二回生が卒業する直前に女子校からの分離独立が決まり、「栃木県立東高等学校」となったのである。
他方、地域社会の住民の要望により、専門的な技術の習得を目的として、次の学校が設置された。
昭和二十二年四月一日那須服装専門学校の前身、那須高等洋裁学院開校。
昭和二十五年七月十六日大田原ドレス専門学校の前身、大田原ドレスメーカー女学院開校。