小学校分離の動き

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大田原小学校は、創立以来町の急激な発展と共に児童数が増大し、最も児童数の多かった昭和三十一年ころは、第一校舎(推譲館)から第六校舎までの広大な敷地と校舎を有していたが、その中には、時代の進展に伴わないで、その構造上不適格なものや、危険校舎の指摘を受け、早晩取りこわしの運命にあったものなどがあったのである。
 当時は県下最大のマンモス校であったため、昭和三十一年九月に西原小の、翌三十二年五月に紫塚小の分離、および新設校の誕生を見たのである。本家の大田原小学校は児童数が減り、校舎も余裕を生じ、不要の校舎の取り壊しが行われたわけである。
 これ等の校舎の中で、第四校舎(大正九年)と第五校舎(昭和二年)が最も危険度が高かったので、この二つの校舎が解体の対象となり、同三十二年遂にこの校舎に学んだ多くの人々に見守られながら、その姿を没したのである。(「創立百周年」大田原小学校)
 前記の両校が、それぞれ大田原小学校より分離、独立していったころの学校行事について、「大田原小学校沿革誌」は次のように記している。
 
昭和三十一年 四月十日始業式、四月十一日入学式、五月四日校外観察、五月二十日運動会、七月二十四~二十六日臨海学校、九月二十五日西原小創立、九月二十八~二十九日日光旅行、九月六校舎塗装工事

昭和三十二年 四月十日始業式、四月十一日入学式、五月三日大運動会、五月二十五日紫塚小創立、五月二十三日同引越し、七月二十四~二十六日臨海学校、八月四、五校舎取りこわし。

 次の表は、小学校分離前後のころにおける大田原小学校の児童数及び職員数である(「大田原小学校要覧」)。
年次男子女子学級数職員数備考
昭和三〇一二〇六一二四〇二四四六四二四六
〃 三一一二四一一二八八二五二九四三四九九月二十五日
西原小分離
〃 三二一〇〇一九五四一九五五三四三九五月二十五日
紫塚小分離
〃 三三八九八九一六一八一四三五四一
〃 三四九二一八五七一七七八三四三九
〃 三五八四八八二九一六七七三四四一