〃 三十二年四月一日 大田原小学校第五校舎を仮校舎として開校(児童数三〇〇人)。
昭和三十二年五月二十五日 新校舎落成。
「わが校誕生」(紫塚小)誌によれば、開校時のようすを次のように述べている。
町の発展に伴い大田原小の児童数が多くなり新設校を希望する声が高まってきた。そこで市は現在の西原小学校を新設することになった。計画は進み、旧大田原地区の大田原小通学区と西原小通学区も決定した。
ところが紫塚、深川西、沼の袋、成田町などの北部地区の住民から、新設校をもう一校という声が上った。
当時の教育委員会は「地元の要望はよくわかるが、いっぺんに二校は無理である。無いそでは振れないから時期を待て」と説得したが、教育に熱心な人たちは「予算上の問題ならできるだけ協力をする」とがん張り、市の教育関係者とヒザ詰め談判を始めた。こうして紫塚小建設計画は地元の熱意の盛り上がりで軌道に乗り、そこに栄町の住民の動きが加わり、さらに拍車をかけるように西那須野町石林の住民も動き出した。
予算の窮屈な市に対し、紫塚小学校建設委員会は、地元の熱意で建設資金百三十万円を集め、連日会議を開いて学校づくりを協議した。初代郡司校長は「この学校は地域社会の人々の努力で誕生したものである。一人ひとりが校長になって〝自分が学校を育てる〟という心でやってもらいたい」とあいさつしている。
一万八千百六十九・八平方メートルの用地の西北方の一角に木造平屋建ての小じんまりした新校舎ができたが、校庭の周りには植え込みもなければ物置小屋一つもない殺風景な有様で、校庭はヤブで、空カンやビンの破片などが散乱し、安心して遊べる校庭ではなかった。
ところが紫塚、深川西、沼の袋、成田町などの北部地区の住民から、新設校をもう一校という声が上った。
当時の教育委員会は「地元の要望はよくわかるが、いっぺんに二校は無理である。無いそでは振れないから時期を待て」と説得したが、教育に熱心な人たちは「予算上の問題ならできるだけ協力をする」とがん張り、市の教育関係者とヒザ詰め談判を始めた。こうして紫塚小建設計画は地元の熱意の盛り上がりで軌道に乗り、そこに栄町の住民の動きが加わり、さらに拍車をかけるように西那須野町石林の住民も動き出した。
予算の窮屈な市に対し、紫塚小学校建設委員会は、地元の熱意で建設資金百三十万円を集め、連日会議を開いて学校づくりを協議した。初代郡司校長は「この学校は地域社会の人々の努力で誕生したものである。一人ひとりが校長になって〝自分が学校を育てる〟という心でやってもらいたい」とあいさつしている。
一万八千百六十九・八平方メートルの用地の西北方の一角に木造平屋建ての小じんまりした新校舎ができたが、校庭の周りには植え込みもなければ物置小屋一つもない殺風景な有様で、校庭はヤブで、空カンやビンの破片などが散乱し、安心して遊べる校庭ではなかった。
(成田和夫)