「明治十六・三 学区改正ニヨリ倉骨村ヲ分離スル」(「蛭田小学校沿革誌」)
「明治二〇・四 那須郡蛭田小学校分教室に属せし倉骨学校と併合して市野沢尋常小学校奥沢分教室と改称したり」(「大正二年奥沢小沿革誌」)
明治十年の栃木県学事年報にはまだ倉骨学校の名称は記載されていない。倉骨学校の存在を記している事柄は前記沿革誌のわずかな記述のみである。
両校の沿革誌から倉骨村=倉骨学校の変遷をたどると、明治十六年倉骨村は片府田村を中心としていた学区(蛭田村、片府田村、新宿村、蛭畑村、倉骨村)=(正風学校)を離れ、同二十年奥沢村を中心とする学区(鹿畑村、奥沢村、上奥沢村、大和久村)=(益才学舎)に変更されたことになる。
すなわち、倉骨学校が開設され、子女の教育を行ったのは、倉骨村分離後から奥沢小学校に合併される明治十六年から同二十年に至る五か年間であったと考えられるようである。
それでは、倉骨学校はどこにあったのだろうか、現奥沢小学校長佐藤栄一の調査によれば次のとおりである。
「むかし学校があったと、土地の奥田澄夫さんが教えてくれたところは、倉骨の東部、金丸原台地西縁に沿って南北にくねる道路東側の竹藪の中であった。地番は、倉骨二四一番地、小字名は上ノ山に入るが道を隔てゝ西側に久保畑、尾敷前、勘解由などの小字名地が広がる。学校跡の平坦面の広さは百坪に満たないだろうと思われる。この倉骨学校跡は土地では学校跡としての呼称はない〝説教寺〟というのがこの地の呼び名である。ここに堂名は分からなくなってしまったが堂宇が建てられていて、折にふれて法話などが行われていたのであろうか。また藪の中には庚申塔や二十三夜塔などの塔碑類が十数基埋もれ眠っているという。倉骨学校は、ここにあった堂宇を利用して開設されたと考えてよいのではなかろうか。」