明治以降、第二次世界大戦まで

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明治以降、太平洋戦争にいたるまでの社会教育の歴史は、一言でいえば、天皇制絶対主義のもとにおける、官僚指導の教化運動をその実体とするものであった。いっそう正確にいえば、日中戦争にはいってからの戦時体制は別としても、官僚主導のもとにおける、官僚および軍部の指導による教化運動=軍事教育というべきであろう。明治初期における社会教育の動きは、文部省および農商務省による書籍館(図書館のこと)および博物館の設置・改廃が主たるものであり、明治二十年(一八八七)前後には、就学奨励をおもな目的とする講話・幻灯映写などの集会が、通俗教育の名のもとに、地方教育会や学校の手によってかなりひろく各地に行われている。教育勅語の発布(明治二三年―一八九四)後は、この教育勅語の精神を一般国民のあいだに普及させることが、ようやく為政者の問題になり、国会の議にものぼるようになるのは、日清戦争(明治二七年―一八九四~同二八年―一八九五)前後から明治三十年代前半にかけてであり、この時期、すなわち日本の産業資本の確立と労働者階級の急速な形成・成長の時期に「社会教育」という用語と観念とが前面に登場するのである。しかし、明治二六年(一八九三)の実業補習学校規程の公布以後、日露戦争(明治三七年―一九〇四~同三八年―一九〇五)にいたる間には、社会教育の重要なうごきは出ていない。日露戦争直後、内務官僚がそのいわゆる地方改良の有力な手段として、地方青年団体に着目するころから、内務・文部官僚による半官半民的な青年団体・婦人団体・その他の教化団体の育成が開始され、農林官僚もこれにならった。明治四四年(一九一一)には通俗教育調査委員会官制が公布されて、文部省にはじめて社会教育関係の機関が表向きに設置された。第一次世界大戦(大正三年―一九一四~同七年―一九一八)の前後から軍事教育に対する軍部の要求がようやく強まり、海外からおしよせる思想不安への対策とが相まって、青年団に対する内務・文部両大臣の訓令(第一次大正四年、第二次大正七年、第三次大正九年)となり、これによって、青年団を官僚指導の教化団体として、全国的に再編成するとともに、大正十五年には青年訓練所を設置し、官僚および軍部による教化運動=軍事教育の全国的な網の目が張りめぐらされた。このような風潮であったから、一般に、国民の自主的な学習と思考は重んじられず、社会教育といえば、国家主義的・軍国主義的な説示と訓練を内容とする、半官半民の行事を意味し、民衆の自主的学習のための施設である図書館・博物館・美術館などは貧弱、不振をきわめたのは、この事情と関連している。大学の拡張なども欧米先進国に実施されたような発展をみることなく、大正末年以来文部省主催の「成人教育講座」などがまね事程度に行われていた。大正十三年(一九二四)に文部省普通学務局に社会教育課が設置され、昭和四年に社会教育局が設けられるとともに、文部省主催の「教化総動員」が行われ、翌五年には「家庭教育振興ノ件」という文部大臣訓令が発せられ、婦人団体(母ノ会・婦人会・主婦会・母姉会・同窓会等)を、市町村または部落単位に再編成し、連合団体をつくることが奨励された。昭和七年には「児童生徒ニ対スル校外生活指導ニ関スル件」という文部大臣訓令によって、全国いっせいに学校単位に少年団がつくられた。昭和十年には実業補修学校と青年訓練所とを統合して青年学校が開設された。このころには農林官僚の指導のもとに、農村自力更生運動が展開され、農村塾運動が盛行した。こうして、日中戦争の長期化とともに、国民精神総動員へ、そしてさらに大政翼賛運動へと、社会教育の戦時体制がつくられていった。大正中期から昭和初頭にかけて、自主的な青年運動・生活改善・労働者教育などの動きがみられ、民間的な社会教育運動の貴重な経験がつまれたが、十分な展開をみることなく、やがて迫ってくるファシズムと戦時体制の前に、ついえ去ったのである。
(「世界百科辞典」平凡社)