慶応四年(一八六八・明治元年)三月十三日布告
此度、王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追々諸祭奠モ可被為興儀被仰出候。依テ此旨五畿七道諸国ニ布告シ往古ニ立帰リ、諸家執奏配下ノ儀ハ被止普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候間、官位ヲ初、諸事万端同官ヘ願立候様可相心得候事。但、尚追々諸社御取調並諸祭奠之儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ可訴出候事。
同年三月二十八日 布告
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類其外仏語ヲ以テ神号ニ相称候神社不少候何レモ其神社ノ由緒委細ニ書付、早々可申出候事。但勅祭ノ神社、御宸翰、勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ御沙汰可有之候。其余之社ハ裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事。
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事。附、本地杯ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事。右之通被仰出候事。
此度、王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追々諸祭奠モ可被為興儀被仰出候。依テ此旨五畿七道諸国ニ布告シ往古ニ立帰リ、諸家執奏配下ノ儀ハ被止普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候間、官位ヲ初、諸事万端同官ヘ願立候様可相心得候事。但、尚追々諸社御取調並諸祭奠之儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ可訴出候事。
同年三月二十八日 布告
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類其外仏語ヲ以テ神号ニ相称候神社不少候何レモ其神社ノ由緒委細ニ書付、早々可申出候事。但勅祭ノ神社、御宸翰、勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ御沙汰可有之候。其余之社ハ裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事。
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事。附、本地杯ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事。右之通被仰出候事。
(「神道大辞典」臨川書店)
これらの布告は先ず祭政一致、神祇官再興という王政復古の基本方針を示すもので、神主・禰宜などは神祇官に付属することとし、従来僧形で神社に仕えている社僧・別当などに対して有髪、浄衣で神社に勤めるよう命じている。全国の神社はすべて国家行政直接の支配下に属することとなったのである。
そして、この神道国教化の構想は、さらに同年三月二十八日、太政官からの「神仏判然令」によって具体化されていったのである。
すなわち、仏像を神体とする神社はこれを除去すること、菩薩・権現など仏語をもって神号とすることを禁止したのである。また、仏像をはじめ鰐口・梵鐘・経文などの仏具の一切についても、神前及び神社境内より除去させたのである。
このようにして、明治初年まで約千余年間にわたって神仏混交であったのが、前記の神仏分離令が出されるに至って、本地垂迹説は廃止され、神仏の区別を明らかにして、神社の主体性を確立し、国家神道の中央集権化をはかったのである。
しかし、これらの改革が極めて急であったため、廃仏毀釈運動が広がり、各地に多くの対立抗争を残したのである。県内では、日光東照宮と輪王寺の関係がその一例である。
大田原地方においては、資料が極めて乏しく、この種の紛争を物語るものはまだ発見されていない。今後における資料の発掘、継続研究等によってこれらのことが明らかになることが期待される。
なお対立関係にはならなかったと思われるが、分離についての代表的なものとして、福原八幡宮と金剛寿院の分離、那須神社境内にあった仁王像を両郷村光厳寺への移動(黒羽町有形文化財)などがあり、また「親園郷土誌」には次のように記されている。滝沢の「滝沢山明王院不動明王明治五年両部神道及無壇無住ノ寺院廃止セラレタルヲ以テ本村ハ大山石尊(相模国大住郡大山ニ鎮座スル石尊)ノ例ニ倣ヘ日本武神社ト改号シ別当明王院ヲ廃ス」
現在の滝沢神社であるが通称は不動様と呼ばれている。