教派神道

1300 ~ 1301
明治の中期以降になると、教派神道の編成が行われるようになり、神道国教化、国民教化政策が進む中で、各神道家が開いた宗教が公認されるようになったのである。
 「神社神道と宗教としての民衆的基盤をもつ諸宗教とを切り離し、神社神道を国家神道として国家的・公的機関とするとともに、一連の民衆宗教を神道の宗教的部分として公認し、国民教化の一翼としたのである。」

(「宗教史」笠原一男編)

 このようにして、次のような教派神道が独立し、宗教として各地で布教活動を展開するのである。
 黒住教・修成派・大社教・扶桑教・実行教・神習教・大成教・御岳教・神道本局・神理教・禊教・金光教・天理教などであり、神宮教は神宮奉斉会となって編成されていったのである。
 大田原地方には明治三十四年(一九〇一)天理教大田原分教会、大正十三年(一九二四)には、天理教金丸分教会が設立され、今日に至っている。
教会所在地設立設立者
天理教大田原分教会中央一(栄町)明治三十四年(一九〇一)北山与作教祖中山みき
〃  東金分教会金田富池五九七大正十四年(一九二五)松本玄一部内教会
天理教金丸分教会北金丸一七三七大正十三年(一九二四)井上兼蔵教祖中山みき

 明治二十二年(一八八九)「大日本帝国憲法」が発布され、国民の信教の自由が認められることとなり、神道(教派神道)・仏教・キリスト教の自由が公認されるようになったのである。
 しかし、信教の自由とはいえ、教義主張に基づく対立抗争が各地で起ったのであるが、大田原地方においては、事件らしい事件の記録はないようである。
 日清・日露戦争を経て明治後期以降になると、神社は戦勝・武運長久を祈願するところとなり、続いて大正・昭和に入ると、国家神道体制は、国民と神社と国家との連なりをさらに深めていったのである。昭和十四年四月、「宗教団体法」の公布によって、各宗教は非常時局における国家による統制が行われることになり、寺院・神社・教会等は、戦争遂行のための活動や行事を行うようになったのである、
 そして学校教育においても、児童生徒の神社参拝、例祭などへの参列など、本市の各旧町村の神社でも行われたのである。