昭和十四年五月護国神社と改称し、更に同二十二年彰徳神社とし、さらに再度護国神社と改称したのである(益子孝治調査)。
なお終戦までは、毎年春季に盛大な町祭が行われ、大弓会・剣道・柔道・銃剣道などの試合も行われ、各学校の児童・生徒並びに一般の参詣者も多かった。なお他の旧町村においても招魂社(忠魂碑)において規模の大小こそあれ、ほぼ同様な祭典が行われたのである。
次の文書は、大田原招魂社に関する取調書である。貴重な資料であるので参考に供したい。
大田原招魂社
大田原宿ノ東北間ノ極隅字北町ニアリ、敷地五畝拾五歩、民有地、社縦二間横九尺、碑一基、表刻忠魂碑、裏刻戦死人名明治十年建築、戦死者姓名役名左ノ如シ
旧大田原藩 使番 大田原鉄之進丹治晴親(三十七年)
〃 戦士 組頭 早川雄太郎平永宣(四十二年)
〃 戦士 久島惣太郎藤原重義(十七年)
〃 栗田左次右エ門藤原春道(四十五年)
〃 銃隊卒 長岡伝四郎源義信(五十二年)
〃 森半兵衛源正忠(四十六年)
長岡彦右エ門源武敏(四十八年)
慶応四戊辰年五月二日塩原三斗小屋両所ニ屯集ノ賊兵大田原ニ来寇ノ時之ニ戦死ス
軍医 宇野良貞藤原良定(四十八年)
輜重方 江連半之助藤原一政(五十九年)
銃隊卒 蒲沢健次郎藤原元治(四十年)
渡辺久次郎源正則(二十二年)
夫卒 江連重五郎(年令不相分)
津久井作蔵(同前)
菊池孫右エ門(同前)
東泉四郎左エ門(同前)
熊久保伝右エ門(同前)
住川酉之助(三十二年)
同年九月九日会津進撃ノ時田島ニ於テ賊兵ノ襲フ所トナリ奮戦シ乱軍ノ中ニ死ス
使番 阿久津又次郎丹治忠順(三十年)
同年九月二十七日若松脱走ノ賊兵ヲ那須郡片府田村ニ要撃ノ時戦死ス
例祭十月十五日
右之通相違無之候也
那須郡大田原宿士族惣代 若色良譲 印
明治十八年六月十五日
阿久津帆平 印
北城諒斎 印
大田原宿ノ東北間ノ極隅字北町ニアリ、敷地五畝拾五歩、民有地、社縦二間横九尺、碑一基、表刻忠魂碑、裏刻戦死人名明治十年建築、戦死者姓名役名左ノ如シ
旧大田原藩 使番 大田原鉄之進丹治晴親(三十七年)
〃 戦士 組頭 早川雄太郎平永宣(四十二年)
〃 戦士 久島惣太郎藤原重義(十七年)
〃 栗田左次右エ門藤原春道(四十五年)
〃 銃隊卒 長岡伝四郎源義信(五十二年)
〃 森半兵衛源正忠(四十六年)
長岡彦右エ門源武敏(四十八年)
慶応四戊辰年五月二日塩原三斗小屋両所ニ屯集ノ賊兵大田原ニ来寇ノ時之ニ戦死ス
軍医 宇野良貞藤原良定(四十八年)
輜重方 江連半之助藤原一政(五十九年)
銃隊卒 蒲沢健次郎藤原元治(四十年)
渡辺久次郎源正則(二十二年)
夫卒 江連重五郎(年令不相分)
津久井作蔵(同前)
菊池孫右エ門(同前)
東泉四郎左エ門(同前)
熊久保伝右エ門(同前)
住川酉之助(三十二年)
同年九月九日会津進撃ノ時田島ニ於テ賊兵ノ襲フ所トナリ奮戦シ乱軍ノ中ニ死ス
使番 阿久津又次郎丹治忠順(三十年)
同年九月二十七日若松脱走ノ賊兵ヲ那須郡片府田村ニ要撃ノ時戦死ス
例祭十月十五日
右之通相違無之候也
那須郡大田原宿士族惣代 若色良譲 印
明治十八年六月十五日
阿久津帆平 印
北城諒斎 印
(雑・第八)