明治三十年(一八九七)、当時一五戸在住の西郷農場の小作人が地ぶくれ丘のある此の地に一祠を建て、浅野八幡宮神社(富士見町)からの分神を祭り、初穂を献じ、神酒を供えて五穀豊穣を祈願したのに始まったと伝えられる。
明治四十五年、星野辰吉・星野五郎作等相計り、西郷農場から無償で檜等を払い下げ、四間四方の藁屋根の板の間の御堂を建立し、元の社をこの中に奉納した。
御神体は渡辺利平作の八幡太郎義家である。この四間四方の社は住民の唯一の信仰の中心として、また集会所として利用されたが、傷みが激しくなったので、大正十四年一大改修を行い、現在の形の八幡神社が建立されたのである。
明治四十五年、星野辰吉・星野五郎作等相計り、西郷農場から無償で檜等を払い下げ、四間四方の藁屋根の板の間の御堂を建立し、元の社をこの中に奉納した。
御神体は渡辺利平作の八幡太郎義家である。この四間四方の社は住民の唯一の信仰の中心として、また集会所として利用されたが、傷みが激しくなったので、大正十四年一大改修を行い、現在の形の八幡神社が建立されたのである。
(「加治屋郷土誌」)