明治十九年(一八八四)九月、佐久山美以教会が設立され、伝道士竹下政吉が赴任し、烏山・喜連川・親園方面に伝道していた。同二十八年~三十年を中沢一治牧師が赴任・伝道した。明治三十年以降中沢牧師転出後はしだいに衰退し、西那須野教会の牧会下に入った。大正二年(一九一三)今井信蔵牧師の時、西那須野教会と佐久山美以会が合同した。これより先、明治四十年(一九〇七)六月美以教会を日本メソジスト教会と改称した。
昭和十六年諸教会各派が合同して、日本キリスト教団を設立、名称は日本キリスト教団西那須野教会と称するようになり現在に至る。
成立期の信徒 明治十一年(一八七八)佐久山宿の有力者、村上勘二郎は白河から幾度か巡回してくる伝道士の訪問を受け、感化され受洗した。その後村上友二郎・カツもともども受洗し、一族も次々に受洗した。友二郎(長男)・正次(三男)は青山学院に学び、メソジスト派宣教師ジュリアス・ソーパル、ビショップ等の指導を受けた。また戸村甲子三郎は大正・昭和年間に、佐久山町長を務め、村上亡きあとの佐久山教会を守った。
昭和十六年諸教会各派が合同して、日本キリスト教団を設立、名称は日本キリスト教団西那須野教会と称するようになり現在に至る。
成立期の信徒 明治十一年(一八七八)佐久山宿の有力者、村上勘二郎は白河から幾度か巡回してくる伝道士の訪問を受け、感化され受洗した。その後村上友二郎・カツもともども受洗し、一族も次々に受洗した。友二郎(長男)・正次(三男)は青山学院に学び、メソジスト派宣教師ジュリアス・ソーパル、ビショップ等の指導を受けた。また戸村甲子三郎は大正・昭和年間に、佐久山町長を務め、村上亡きあとの佐久山教会を守った。
(「日本キリスト教団西那須野教会調書」)
次の資料は、佐久山美以教会設立届である。佐久山町より栃木県知事への届書であるが、明治期における大田原地方のキリスト教会設立の状況を知る手がかりとして、貴重な資料である。
佐久山美以教会設立届
当教会ハ明治十九年六月ヨリ設立致シ来リタルモノニ有之依テ左記事項御届申上候也、
一、設立ヲ要セシ理由
明治十六年中米国宣教師ビショップ仝国宣教師ハリス本国人栗村左エ八等数々出張布教ニ盡力セシヨリ信仰帰依スルモノ追日増加シ来タリタルヲ以テ爾来一定ノケ所ニ於テ礼拝説教等ノ必要ヲ感シ設シタルモノナリ。
二、設立ヲ終ル可キ期限
信徒ノアル限リ継続ス
三、名称 佐久山美以教会
所在地 佐久山町大字佐久山弐千弐拾番地
布地 四畝一九歩 建物 建坪二七坪、内十坪ヲ礼拝所トシ余ヲ牧師ノ住宅トナス
四、宗教ノ名称監督美以教会
五、管理及維持ノ方法
管理者ハ本教会条例ノ定ムル所ニ依リ当教会四季会ニ於テ選挙シ維持ハ信徒ノ献金負担ニヨリ支弁ス。
六、担当布教者ノ資格及選定方法
担当布教者ハ本教会条例ノ定ムル所ニ依リ毎年一回年会ト称シ会開スル該会既定ノ試検ニ及第シタル者ヲ採用ス
栃木県那須郡佐久山町大字佐久山一四三番地
管理人 村上勘二郎
明治三十二年十月一日
当教会ハ明治十九年六月ヨリ設立致シ来リタルモノニ有之依テ左記事項御届申上候也、
一、設立ヲ要セシ理由
明治十六年中米国宣教師ビショップ仝国宣教師ハリス本国人栗村左エ八等数々出張布教ニ盡力セシヨリ信仰帰依スルモノ追日増加シ来タリタルヲ以テ爾来一定ノケ所ニ於テ礼拝説教等ノ必要ヲ感シ設シタルモノナリ。
二、設立ヲ終ル可キ期限
信徒ノアル限リ継続ス
三、名称 佐久山美以教会
所在地 佐久山町大字佐久山弐千弐拾番地
布地 四畝一九歩 建物 建坪二七坪、内十坪ヲ礼拝所トシ余ヲ牧師ノ住宅トナス
四、宗教ノ名称監督美以教会
五、管理及維持ノ方法
管理者ハ本教会条例ノ定ムル所ニ依リ当教会四季会ニ於テ選挙シ維持ハ信徒ノ献金負担ニヨリ支弁ス。
六、担当布教者ノ資格及選定方法
担当布教者ハ本教会条例ノ定ムル所ニ依リ毎年一回年会ト称シ会開スル該会既定ノ試検ニ及第シタル者ヲ採用ス
栃木県那須郡佐久山町大字佐久山一四三番地
管理人 村上勘二郎
明治三十二年十月一日
佐久山町長代理助役 高橋安誉
栃木県知事 溝部惟幾 殿
(佐久山・第二一二)