治承四年(一一八〇)十月奥州秀衡館から兄頼朝の挙兵をきき伊豆に赴く途中、下野国那須粟野宿(黒羽町余瀬)を通りかかった源義経軍に参加、家来となり、西国に従った。宗隆一五歳の時といわれている。
扇の的で名高い屋島の合戦、那須与一の物語について、その名場面と称されるところを「平家物語」から抜粋すると次のとおりである。
……与一目を塞いで「南無八幡大菩薩別してはわが国の神明・日光権現・宇都宮・那須湯泉大明神、願はくは、あの扇の真中射させてたばせ給へ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に再び面を向かふべからず、いま一度本国へ帰さんとおぼしめさば、この矢はづさせ給うな。」と、心のうちに祈念して目を見開いたれば、風も少し吹き弱って、扇も射よげにこそなったりけれ。与一鏑を取ってつがひ、よつ引いてひゃうと放つ。小兵といふでう十二束三伏、弓は強し鏑は浦響くほどに長鳴りして、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひいふっとぞ射切ったる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ揚がりける。春風に一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散ったりける。皆紅の扇の夕日のかがやくに白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られけれを、沖には平家ふなばたをたたいて感じたり。陸には源氏箙(えびら)をたたいてどよめきけり。
(「平家物語巻一一 扇的」大日本文庫本)
なお、「大田原市史前編」「那須餘一宗隆の屋島のほまれ」を参照されたい。
那須与一扇の的を射る図 狩野守信画(「下野国誌」)