「大田原市史前編」「日光北街道付奥の細道」では、主に那須野に入った芭蕉の行程と曽良日記について記しているので、本章では芭蕉と大田原地方にかかわる事柄について述べることにする。
この研究について、益子孝治著「奥の細道=那須野から白河の関」によれば次のように記している。
(前略)下野に入った芭蕉は、歌枕として有名な室の八島(栃木市)、初夏の日に映える日光の美しさと黒髪山(男体山)、裏見の滝を見物して、「那須の黒羽と言うところに知る人あれば、これより野越にかかりて、直道を行かんとす」と日光北街道を急ぎ那須野に入る。
那須野は「下野国誌」に「那須郡太田原の辺より陸奥の国境までをなべて那須野が原と言うなり、その西北方に那須岳と言う山あり」とある。
那珂川の上流と箒川にはさまれた広大な複合扇状の地、風光明媚である。那須野の歴史は古い。遠くは那須国と称して国造が置かれた、湯津上村の「那須国造碑」がそれを証明している。
右大将源頼朝公が建久四年(一一九三)那須野での狩のことが「吾妻鏡」にある。また実朝は「もののふの矢なみつくろうこての上に霰たばしる那須野篠原」と詠んだ。中世のころ、那須七騎の根拠地として活躍したところである。
曽良随行日記、四月三日の条に「ヤイタヨリ沢村ヘ一里、沢村ヨリ太田原ヘ二里八丁」とある。矢板から県道矢板小川線を下り東北新幹線の高架をくぐり抜けると現在の矢板市に属する沢である。
昔は日光北街道の宿場として栄え、馬市が立つてにぎわった。数年前までは草屋根の屋並に馬喰宿があったが今はその面影もない。
部落はずれの沢村城跡に天長二年(八二五)宥印上人の開山と伝えられる補陀洛山千手院観音寺がある。
参道入口に石造りの仁王尊像二〇数基の石燈籠を通り抜け急勾配の石段を昇りつめたところが本堂である。庫裡裏の箒川と広々とした那須野ケ原が見渡せるところに〝曽良〟の句碑がある。
河原石の碑面には「かさねとは八重なでしこの名なるべし」と佐久山城主後胤で陶芸家でもあった福原達朗筆の句碑である。
素朴な野夫に馬を借り、その馬のあとを慕い走った小娘のかさねのことを書いた「奥の細道」が、おのずと思い寄せられる那須野ケ原がここからよく見渡せる。
この曽良の句碑は、大田原市実取の日本ファマシー工場わき(那須文学散歩の会・蓮実彊筆)と黒羽町余瀬西教寺境内(長女川かな女筆)にも碑がある。蓮実長著「那須郡誌」には、このできごとは沢より大田原へ通ずる道すがらのこと、また、小林友雄著「栃木県総史」では、馬を返したのは矢板付近であろうとしている。
奥野細道画巻(豊書房)「那須の小姫」蕪村筆
奥の細道の研究者間では「随行日記」に那須野のことが記録されていないのでおそらく芭蕉の虚構ではなかろうかとする説もある。
沢から大田原までは九キロ、箒川に架る木桁橋を渡り、整備された水田を通り抜けると下薄葉。さらに実取の曽良の句碑前を通り、一本木の水戸光圀(黄門)が諸国漫遊の折りに「なんじゃもんじゃの木」と命名されたという伝説の地、朽ち落ちた古木の前を走る日光北街道は大田原まで直線、そして下薄葉から大田原にかけて一面の原野だった。
筆者は、那須野越えでのできごとは、那須野と草刈る男との出合い、土地の者がカヤ場と呼んでいる実取団地付近でのできごとと思われる。「この馬のとどまる所にて馬を返したまえ」とあるところからみれば、さほどの道ほどでもなければ馬を借してくれないだろう。馬を借りて駄賃を馬の鞍つぼに結びつけて返した人里は大田原と無理なく考えられる。
日光北街道は大田原で、江戸時代の五街道の一つ奥州街道と合する。馬を返したのは現在の同市神明町交差点付近と推理する。
「随行日記」には、前条につづき「太田原ヨリ黒羽ヘ三リト云ドモ二リ余リ也」とある。
太田原は今の大田原市、当時は大田原備前守典清(一万千四百石余)の城下町、奥州街道の宿場町として栄えていた。日光街道をたどった芭蕉は、下町(中央二丁目)木戸脇、薬師堂境内にある真新しい七重塔の石塔(真享元年=一六八四)を横目で左に見、仲町(新富町二丁目)益子工務店から小倉歯科医院までの本陣前を通り抜け、当時まだ建立されていなかった城大手口先の金燈籠前と進み、寺町(山の手二丁目)上州屋旅館角を右に旧大久保道を通り抜け、大田原神社と城山公園を結ぶ遊歩道橋の切通しのところへと出た。
当時蛇尾川には橋は架かっていなかった。
記録によると川会所や船役所があって、川越人足三八人と登録されている。
蛇尾川を越した芭蕉は、河原町から中田原古屋敷を通って温泉坂麓の大田原城四方固めの一つ朝日観音(現在、新富町三丁目、不退寺蔵)堂前から坂を越え坂下を右折して、上奥沢より金丸原の真ん中を横切り黒羽へと急いだものと思われる。
芭蕉の奥州街道(県内)での足跡は以外にも少ない。千住から日光までは日光街道として扱っているから宇都宮~白河間の奥州街道の最初に姿を見せたのは大田原城下の宿場ということになる。
大田原の宿場は新田入口(現在、室井病院北角)から大久保出口(遊歩道橋)までの一五町八間(一、六七〇メートル)町屋敷三〇四軒と正徳三年(一七一三)に幕府に報告されている。宇都宮白河間での最大の宿場であった。奥の大名や旅人たちはこの街道筋を通り故郷へ、遠くは京都大阪や江戸の文化を運んだのである。宿場は旅人のつかれをいやし繁栄した。
花の佐久山(大田原市)として知られ、農民雅楽でその名も高い正浄寺境内には、建立年代不明の句碑が残されている。
「花の陰謡に似たる旅寝かな 芭蕉」言うまでもなく芭蕉が佐久山で詠んだ句ではない。旅人達が運んだ文化を知恵ある宿場びとが句碑を建立し、いつしか宿場の名物として残されたものである。
那須野は「下野国誌」に「那須郡太田原の辺より陸奥の国境までをなべて那須野が原と言うなり、その西北方に那須岳と言う山あり」とある。
那珂川の上流と箒川にはさまれた広大な複合扇状の地、風光明媚である。那須野の歴史は古い。遠くは那須国と称して国造が置かれた、湯津上村の「那須国造碑」がそれを証明している。
右大将源頼朝公が建久四年(一一九三)那須野での狩のことが「吾妻鏡」にある。また実朝は「もののふの矢なみつくろうこての上に霰たばしる那須野篠原」と詠んだ。中世のころ、那須七騎の根拠地として活躍したところである。
曽良随行日記、四月三日の条に「ヤイタヨリ沢村ヘ一里、沢村ヨリ太田原ヘ二里八丁」とある。矢板から県道矢板小川線を下り東北新幹線の高架をくぐり抜けると現在の矢板市に属する沢である。
昔は日光北街道の宿場として栄え、馬市が立つてにぎわった。数年前までは草屋根の屋並に馬喰宿があったが今はその面影もない。
部落はずれの沢村城跡に天長二年(八二五)宥印上人の開山と伝えられる補陀洛山千手院観音寺がある。
参道入口に石造りの仁王尊像二〇数基の石燈籠を通り抜け急勾配の石段を昇りつめたところが本堂である。庫裡裏の箒川と広々とした那須野ケ原が見渡せるところに〝曽良〟の句碑がある。
河原石の碑面には「かさねとは八重なでしこの名なるべし」と佐久山城主後胤で陶芸家でもあった福原達朗筆の句碑である。
素朴な野夫に馬を借り、その馬のあとを慕い走った小娘のかさねのことを書いた「奥の細道」が、おのずと思い寄せられる那須野ケ原がここからよく見渡せる。
この曽良の句碑は、大田原市実取の日本ファマシー工場わき(那須文学散歩の会・蓮実彊筆)と黒羽町余瀬西教寺境内(長女川かな女筆)にも碑がある。蓮実長著「那須郡誌」には、このできごとは沢より大田原へ通ずる道すがらのこと、また、小林友雄著「栃木県総史」では、馬を返したのは矢板付近であろうとしている。
奥野細道画巻(豊書房)「那須の小姫」蕪村筆
奥の細道の研究者間では「随行日記」に那須野のことが記録されていないのでおそらく芭蕉の虚構ではなかろうかとする説もある。
沢から大田原までは九キロ、箒川に架る木桁橋を渡り、整備された水田を通り抜けると下薄葉。さらに実取の曽良の句碑前を通り、一本木の水戸光圀(黄門)が諸国漫遊の折りに「なんじゃもんじゃの木」と命名されたという伝説の地、朽ち落ちた古木の前を走る日光北街道は大田原まで直線、そして下薄葉から大田原にかけて一面の原野だった。
筆者は、那須野越えでのできごとは、那須野と草刈る男との出合い、土地の者がカヤ場と呼んでいる実取団地付近でのできごとと思われる。「この馬のとどまる所にて馬を返したまえ」とあるところからみれば、さほどの道ほどでもなければ馬を借してくれないだろう。馬を借りて駄賃を馬の鞍つぼに結びつけて返した人里は大田原と無理なく考えられる。
日光北街道は大田原で、江戸時代の五街道の一つ奥州街道と合する。馬を返したのは現在の同市神明町交差点付近と推理する。
「随行日記」には、前条につづき「太田原ヨリ黒羽ヘ三リト云ドモ二リ余リ也」とある。
太田原は今の大田原市、当時は大田原備前守典清(一万千四百石余)の城下町、奥州街道の宿場町として栄えていた。日光街道をたどった芭蕉は、下町(中央二丁目)木戸脇、薬師堂境内にある真新しい七重塔の石塔(真享元年=一六八四)を横目で左に見、仲町(新富町二丁目)益子工務店から小倉歯科医院までの本陣前を通り抜け、当時まだ建立されていなかった城大手口先の金燈籠前と進み、寺町(山の手二丁目)上州屋旅館角を右に旧大久保道を通り抜け、大田原神社と城山公園を結ぶ遊歩道橋の切通しのところへと出た。
当時蛇尾川には橋は架かっていなかった。
記録によると川会所や船役所があって、川越人足三八人と登録されている。
蛇尾川を越した芭蕉は、河原町から中田原古屋敷を通って温泉坂麓の大田原城四方固めの一つ朝日観音(現在、新富町三丁目、不退寺蔵)堂前から坂を越え坂下を右折して、上奥沢より金丸原の真ん中を横切り黒羽へと急いだものと思われる。
芭蕉の奥州街道(県内)での足跡は以外にも少ない。千住から日光までは日光街道として扱っているから宇都宮~白河間の奥州街道の最初に姿を見せたのは大田原城下の宿場ということになる。
大田原の宿場は新田入口(現在、室井病院北角)から大久保出口(遊歩道橋)までの一五町八間(一、六七〇メートル)町屋敷三〇四軒と正徳三年(一七一三)に幕府に報告されている。宇都宮白河間での最大の宿場であった。奥の大名や旅人たちはこの街道筋を通り故郷へ、遠くは京都大阪や江戸の文化を運んだのである。宿場は旅人のつかれをいやし繁栄した。
花の佐久山(大田原市)として知られ、農民雅楽でその名も高い正浄寺境内には、建立年代不明の句碑が残されている。
「花の陰謡に似たる旅寝かな 芭蕉」言うまでもなく芭蕉が佐久山で詠んだ句ではない。旅人達が運んだ文化を知恵ある宿場びとが句碑を建立し、いつしか宿場の名物として残されたものである。
(「奥の細道=那須野から白河の関」)
今後の調査研究によって、芭蕉と大田原地方の庶民とのかかわる姿が、記録などの発見などによって明らかにされることが期待される。