狂歌・俳諧と町人

1323 ~ 1326
大田原地方には、すでに江戸時代の末ごろから狂歌をよくする者が現れ、町人文化の粋をいくものとされていた。渡辺金助著「那須郷土誌」には次のように記している。

那須郷土誌・大正6年 渡辺金助著

(前略)笠間玄仲、医を業とし狂歌をよくす、称して玄中狂言匕盛という。其名世に知らる故を以て文政五年頃の夏、十返舎一九玄仲を大田原に訪ふ(現山の手二~一~二付近)不幸にして玄仲在らず、一九辞して塩原に向ふ、暫くにして玄仲家に帰る。家人告ぐるに一九来訪のことを以てす、玄仲珍客なりとし追ふて字観世音西にて一九に会し、狂歌の問答あり、現に若林謙次郎邸遅光園内の柿は、狂歌問答の時暑を避けたる所なりと伝ふ、左に匕盛の狂歌数首を掲ぐ、匕盛の曽孫瀧十郎金田村大字小瀧字堀米に住存せり。
○月峡李白の画讃
 酒一斗詩は百篇と八百の翌の頭痛も作るなるべし
○寺町の某久喜の目薬を売る或ることにて青竹の閉門を命ぜられる時に仔細を問ふ人ありければ玄仲狂歌を以て答う。やんめちめはやりめまではよけれとも戸しめにきかぬ久喜の目薬

○大田原出雲守大坂御番頭の時入費として藩士より禄半分を借上げたる際諷して三日間閉門せられ玄仲匕盛全部を返還す。

 背と腹にかひぬ知行をけづられて次第にほそる家中武士かな
○当時の将軍某京都に登らずして太政大臣に任ぜられたれば大坂の歌人某、匕盛に一百の狂歌を寄す。

 上洛もせずに太政大臣とはこれもぶしやうのはじめなりけり。
 匕盛の返し
 ぶしやうともなまけものとも言はゞいえくらいすぎては動かれもせぬ。

(「増補那須郷土誌」)

 また町内の俳諧の代表的風流人として、同誌のなかで次のように記している。
 
○若林善兵衛(西海石善兵衛)苓草と号す。晩年俳諧を好む、「枯菊や墨の流れし花の札」
  辞世
  「けふま伝の世に何事も七転び八起の坂を越て極楽」(洞泉院境内)
○遅水 馬頭生れ、大田原に来て新町に住み若林長四郎と曰う、俳諧を作り書を善くす。
 持合ふて暮を保ちぬ花と水
 風すぎて畳(たゝ)めず船の夏羽織
 柊(ひいらぎ)や其癖花の愛らしき

(「増補那須郷土誌」)

 また中央の俳諧では、文政二年(一八一九)の「俳諧歌相撲」において大田原地方から活躍した人物として、次の町人の名前が記されている。
 匕盛・繁樹・景山・方頼・安方・帯成
 風情をたのしみ、情緒豊かな大田原町人の粋な生き方を想像することができるのである。