光をかかげた人々

1330 ~ 1332
大田原地方から各界に幾多の人材が輩出している。これらについて「大田原」(大田原市教育委員会)より転載して次に記す。
 
 大田原の美しさは、なんといってもその自然にあるといえよう。
 東には八溝の山脈、西には茜さす男体山の美しさ、北には千古の噴煙を今に伝える雄峰那須岳、その山ろくに開ける那須野が原、東に那珂川、中央に蛇尾川、西には箒川の清流をたたえ、その流れは太平洋へとそそいでいる。
 このような美しい山並み、清く流れる大小の河川、田園の美しさなど、四季折々の彩りの変化は格別である。
 この大自然の中から源平屋島の合戦の圧巻扇の的で有名な「那須与一宗隆」が生まれ育くまれたのである。くだって戦国の世には大田原氏を始め「那須七騎」が美しい風土を外敵から守ったのである。
 自然歌人の西行法師、連歌師飯尾宗祗、奥の細道の松尾芭蕉ら多くの文人墨客達もこの地に足を運んでいる。
 明治に入って大田原を中心として、那須野が原に開拓の鍬が入れられ、日本三大疏水の一つ「那須疏水」が水を運び、多くの水路が開かれ、豊かな田園都市として大きく飛躍してきたのも、大田原地方の住民の努力のたまものである。
 先人の歩んだ歴史と大自然の中で、香り高い文化は、江戸時代の大田原藩学校時習館をはじめ、宿場町と各天領内の寺子屋、寺院等の教育によって花が咲いたのである。
 幕末から明治には、フランス大統領から日本初のレジョン・ド・ヌール勲章を贈られた仏学の始祖村上英俊(佐久山)、種痘学の先駆者北城諒斉(大田原)、那須疏水の開拓者印南丈作(佐久山)、県下初のキリスト教会を建てた村上勘二郎(佐久山)、私学興風学校塾生一、五〇〇有余名の俊秀偉材を世に送った印南嵐(中田原)等が、一つの文化圏を形成し、その流れは現代へと受けつがれている。
 名誉市民の文化功労者故豊道慶中(号春海、佐久山)、彫刻家関谷充(親園)、県文化功労者として考古学教育者故渡辺留吉(大田原)、郷土史家故人見伝蔵(大田原)、陶芸家故福原達朗(佐久山)、歌人故高野はま(大田原)、公衆衛生の高橋安雄(親園)等。
 中央では冶金学の大家海老原敬吉(旧姓斉藤・ピストンリングの合金の発明で藍授褒賞を受ける)、元東京工業大学学長川上正光(大田原)、三菱重工相談役(日本の航空技術を世界に示した「神風号」の主任設計技師)・経団連評議会議長河野文彦(大田原)、江戸文学の権威者滝田貞治(佐久山)、歌人松山チヨ(旧姓竹尾・福原)、会計士故大島頼光(野崎)、評論家津久井竜雄(大田原)、東洋大学理事長で農民文学者故国井淳一(親園)、京浜外貿埠頭公団初代理事長故高瀬伝(親園)等これらの人材は風土の中で育ち蛇尾の流水、箒川の清流と共に永遠に流れ続けることであり、市民の文化と文教に対する熱意は強烈なものであるといっても過言ではなかろう。

(「大田原」=大田原市教委・益子孝治)


国井淳一詩集(志賀忠作氏提供)