佐久山の故川上茂平翁の三男に生まれ、五歳のとき上京し僧籍に入り、昭和三十七年七月には仏門高伝の天台宗大僧正に補された。
氏は早くから西川春洞翁に師事し、昭和五年には泰東書道院を創立、同二十三年には日本芸術員会員となり、日展に書道の参加をはかり、同二十六年には社団法人日本書道連盟を創立し理事長となる。同三十三年には日本書道代表団長として中国に招かれ、各地を歴訪、同三十六年には日展顧問に挙げられた。同四十二年十一月、国の文化功労者として表彰され、同三十八年八月一日、大田原市名誉市民に推挙された。
「書は心の成果、人格の表現である。道念が欠けていては本当の書道ではない」、「書道は人の心を養う道で沈静を尊ぶ」、「文学を離れて書はない」等の名言を残している。
六曲一隻屏風「万法皆空帰」(佐久山実相院所蔵)は中国展に出品した代表的作品である。
氏は早くから西川春洞翁に師事し、昭和五年には泰東書道院を創立、同二十三年には日本芸術員会員となり、日展に書道の参加をはかり、同二十六年には社団法人日本書道連盟を創立し理事長となる。同三十三年には日本書道代表団長として中国に招かれ、各地を歴訪、同三十六年には日展顧問に挙げられた。同四十二年十一月、国の文化功労者として表彰され、同三十八年八月一日、大田原市名誉市民に推挙された。
「書は心の成果、人格の表現である。道念が欠けていては本当の書道ではない」、「書道は人の心を養う道で沈静を尊ぶ」、「文学を離れて書はない」等の名言を残している。
六曲一隻屏風「万法皆空帰」(佐久山実相院所蔵)は中国展に出品した代表的作品である。