親園、滝岡の故関谷兼太郎翁の二男として生まれ、県立大田原中学校(旧制)を経て、東京美術学校(現 東京芸大美術学部)彫刻科を卒業し、高村光雲及び関野聖雲氏に師事する。大正十五年に院展に初入選し、昭和八年「伝五郎老人」により院展同人となり、同年「裸婦」により日本美術院賞受賞、同三十六年彫刻家集団S・A・A結成、同三十八年国画会彫刻部会員となる。氏の代表的近作には「折れた樹」・「空蝉」・「心象北壁」などがあげられる。
同四十六年十一月一日、大田原市名誉市民に推挙される。
同四十六年十一月一日、大田原市名誉市民に推挙される。