庶民の文化

1341 ~ 1342
明治以降の大田原地方の娯楽・文化としては、芝居・歌舞伎・義太夫などをあげることができよう。これらは農村地方の青年達によって演じられるようになった。青年達の多くは、日中は外で働き、夜間になって芝居や歌舞伎の稽古をかさねて演じたのである。
 田代善吉著「栃木県史・文化編」によれば、大田原地方の庶民の文化(娯楽)について次のように記している。
 
 大田原を中心として義太夫の盛んなのは、湯宮、関谷、金沢、親園、市野沢、湯津上である。又、東京より名優が来て町人や近所の人々に好評を博した。
 大田原町にて歌舞伎芝居は常設場はなかった。やはり舞台は小屋掛にて其時々臨時に造作したものであった。明治十年ころ始めていわゆる常設舞台なるものが寺町に建てられたが、明治三十年ころ寺町に錦座が建設された。その開館の時は東京より市川左団次を聘し盛大なものであったという。それと前後して大手町に大和座の建設があった。錦座は再三火災にあったが後株式をもって経営し、大田原町における唯一の演芸場となった。昭和四年ころ兄弟館が建設され、主として映画を上演した。活動写真が流行するに従って歌舞伎専門の舞台は衰えて来た。錦座は朝日館と改名し、兄弟館は上栄館と改めて専ら活動写真を映写興行することとなった。

 太平洋戦争が激しくなり、日本全体が戦時体制下に入ると前記のような娯楽文化は全くかげをひそめるようになったのである。
 昭和二十年八月、終戦となり、社会生活の混乱の中にもいち早く復興の兆しがみえるようになり、地方の農村においては、青年団が主催する「演芸会」などの催しが、各地で活発に行われるようになり、希望のない窮乏生活の中にもしばしばのやすらぎを与えたのである。
 同二十一年秋には「大田原町文化協会」が発会することになった。これは、終戦後乱れた国を文化国家として立ち上らせるために生れたもので、精神的方面に関心深い人々の集りであり、それが地方文化の向上に大きく貢献したのである。