楼門は唐様詰組銅板平葺入母屋造の建物で、上層の腰のみに長押を用いている。透塀二間、長床東西に三間二間を有する。本殿と同時に天正五年(一五七七)に黒羽城主大関氏によって再興されたと社記は伝えるが、本殿にはその後の再営を示す銘文があるが、楼門にはなく造営年代を決める資料を欠いていた。昭和五十二年十一月から昭和五十五年三月の三か年にわたる解体修理工事によって、今回の修理前に解体されたあとが見られぬことと、楼門棟札(銅板製寛永十八年)、下層一手先巻斗墨書(寛永十九年七月十一日)、二重頭貫墨書(寛永十九年閏九月十六日)等により寛永十九年(一六三九)建立のものと推定された。
今回の解体修理工事は旧茅葺屋根を、銅板瓦棒に変更されていた屋根を、幾分でも旧態に復するため銅板平葺仕上げとし、色調は弁柄を主とし、青・白・黄・墨に塗分けられ、上層通し肘木には鉄線花、下層には葡萄を描き、上層台斗間琵琶板には丸に沢潟、下層には丸に三引の大関・那須両家の家紋が描かれている。特に雲竜については、下図より人間国宝堅山南風先生の監修により、那波多目煌星、功一画伯親子の揮毫によりなる。この楼門は桃山時代の影響をうけた江戸時代初期建造のものであるが、今回の修理により創建当時の豪壮華麗なものに復元され、県北では余り類例を見ない特徴をもった文化財である。