一〇 城鍬舞

1358 ~ 1360
 大田原の城は、大田原氏がもと町島に水口居館と称し居住していたが、天文十四年(一五四五)大田原資清に至り、前室村(大田原)に築城、前室城と称して移り住んだ。資清は築城にあたり、付近六か村の農民に工役させ、竣功すると酒饌を賜わった。その時石神村(上石上)の農民藤兵衛という人が、酔に乗じて手にしていた鋤鍬を持って舞い出した。同席の各々も鍬を叩いて囃した姿が、非常に面白かったので資清の興をひいた。以来吉例として毎年正月藤兵衛らを城中に召してこれを演ぜさせた。初めは一定の法式もなかったが、次第に舞踊化して伝承され今日に至っている。
 形振(扇取)一人、横笛四~五人、鍬叩き一二人(少女)、太鼓打二人、旗持一人、形振らは踊手の頭で滑稽に演ずる「シテ」役である。薄紅色の頭巾を被り、茜の丸帯を背に結んで、その両端が膝まで垂れる。前方には力士が着ける化粧廻しのようなものを付け、茜色の脚絆をはき、裾を高くあげ、日月を描いた大軍配団扇を持ち、腰に長瓢箪及びドーランをつける。鍬叩きは白の鉢巻、花笠を被り、青白のたすきを掛け、縞の脚絆、白足袋に草鞋をはき、腰に紙製の柳の枝を挿し、茜色のむかばきを付け、裾をからげ鍬(柄を取り去った鍬先の型を模造したもの)と、これを打つ鍬打鉄と称する棒状の鉄を持つ。太鼓打ちはニワトリの羽根で造った鶏冠に似せたものをかぶり、紺地竜浪の上衣を付けて、同じ裾模様の袴をはき横に長い太鼓を腹部につけ、両手に撥を持つ。笛吹きは頭に花を挿した方形の笠をつけ、太鼓打ちと同じ仕度である。以上の者が調子を合せ舞うさまは、城を築く人夫が働く光景を髣髴させる。なかでも形振の踊るさまは「サッサッサアー」と呼びながらあたかも人夫を督励しているようである。

城鍬舞


栃木県無形文化財 城鍬舞

栃木県連合教育会編
栃木県わらべ歌民謡集による