江戸時代、陸上交通の幹線というべき五街道は、幕府の道中奉行の支配下にあった。宿駅には本陣・問屋場を設けて人馬を常備し、公用旅行者の便をはかった。奥州道中には二五人、二五匹という規定で人夫と馬が宿駅に課役させられた。この賦役を勤めるために資料となるのが本図である。
これには新田入口より大久保出口まで一五町八間(一、六七〇メートル)に宿町並みに、馬役九五人、歩行役一一三人、扶持一一人、無役四七人、川越橋掛人足三八人、町屋敷三〇四軒が図示されており、奥州道中最大の宿場町であった大田原宿の様子が、よく理解される貴重な資料である(「前編」大田原宿町並之図参照)。
大田原宿町並の図(一部分)