五〇 大田原城跡

1395 ~ 1395
 天文十四年(一五四五)大田原資清によって築城され、町島水口より移り、以来明治四年(一八七一)の廃藩置県に至るまでの三二六年間、大田原氏の居城である。
 東西二一〇メートル、南北三二七メートル、面積九・一ヘクタール。本丸、二の九、三の丸に区画され、このほか北・西両曲輪・馬場・作事場等、築城法にかなった防ぎょを第一とした要塞の地である。明治五年(一八七二)兵部省に引渡され、取り壊された。
 慶長五年(一六〇〇)徳川家康は関ケ原戦の前、奥羽の情勢からこの地を重視して城の補修を命じ、さらに徳川三代将軍家光は寛永四年(一六二七)常時玄米一、〇〇〇石を城中に貯蔵させ奥州への鎮護とした。文政八年(一八二五)には火災によって焼失したが、同九年新たに造営した。戊辰の役には西軍の軍事拠点となったために、東軍に手薄のところを攻められたが、火薬庫の暴発によって落城をまぬかれた。
 明治十九年長野県渡辺国武(大蔵大臣)の所有に帰したが、昭和十二年嗣子千冬(司法大臣)これを大田原町に寄贈したので、公園として整備し、市民の憩の場所となっている。