文治三年(一一八七)那須太郎資隆の次男泰隆は、この地辺りに築城(通称御殿山)して、佐久山次郎泰隆と称して居住した。のち、永禄六年(一五六三)子孫の佐久山右衛門義隆は、同族の福原安芸守資孝(大田原備前守資清の次子資則)に滅ぼされて廃城となった。跡は東西約六〇メートル、南北五〇メートルで、その西側及び南側の一部に土塁が残っている。
天正十八年(一五九〇)資孝の子雅楽頭資保は、片府田城より佐久山四つ谷に陣屋を移し、のち元禄十五年(一七〇二)福原刑部資倍佐久山城に補修を加えて移り、以降福原氏累代が居住したが、明治二年(一八六九)福原内匠資生版籍を奉還した。
城跡は現在御殿山公園と呼ばれ、公園として利用されている。