水口居館跡は明応のはじめ(一四九二年頃)大田原(大俵)康清が構えたものと伝えられる。以後大田原氏はこの地を拠点として近隣に勢力を張り、那須家に仕えて信任厚く、資清の代、福原五郎資安・大関宗増と事を構えて戦い敗れ、永正十五年(一五一八)出家して越前の永平寺に逃れ一時廃館となった。のち、天文十一年(一五四二)越前の国主朝倉孝景の応援を受けて白旗城を攻略、大関増次を敗死させ、還俗して再びこの地に居住したが、天文十四年(一五四五)大田原城の構築成るとその地に移り、廃館となった。
この居館跡は七三メートルのやや方形で、北側全面と東・西の一部に土塁が残され、土塁の外側には幅一二メートルの堀跡がめぐり、堀外の一部にも土塁が残されているほかは、水田になっている。
大田原氏が、近世大名の地位を得る以前の居館跡である(「前編」参照)。