この碑は文化九年(一八一二)十月のある朝、那須野に一隊の兵士が刀を荷い槍を立てうち続き行進する蜃気楼が現われた。折柄ここを通った甲州の人高津義克という行脚僧が目撃し、これを土地の者に聞くと「蒲盧(ホロ)」だといった。この僧は早速蜃気楼の有様と蒲盧の意義について書き残し去った。これが蒲盧碑の原文である。のちこれを石に刻んで建立したのが碑である。
「ホロ」と呼ばれる根拠は、土地の人が蜃気楼のことを蒲盧というのである。孔子の孫孔仍の著、中庸第二〇章哀公問章孔子の「夫政也者蒲盧也」とある。政治は蒲や盧のようなもので、為政者が仁愛の道を以て政治を行えば、民心は、速やかに感化して善道に移るのは、丁度水辺に生えている蒲や盧がたやすく繁茂するのと同じだという。
これは当時幕府領那須・塩谷六二か村を支配した代官山口鉄五郎高品が、八木沢中丸に出張陣屋を置いて、仁政をもって民衆にあたったので、この僧は感激し、蒲盧をその善政に結びつけたものである。
山口代官は寛政五年(一七九三)初めて幕府代官として那須・塩谷を支配すると、荒地復旧開墾・備荒儲蓄・入百姓・貧困病者の賑恤・赤子の保育など、農村の振興と民風の振作に努め、特に那珂川上流の木股川を分水し水路を開削、二〇〇町歩の新田を開発するなど、幾多の功績をあげた。
この碑は代官の功績を表彰した恩徳碑であって、単に蜃気楼を記念したものではない。そして郷土農民の政史を物語る貴重な文化財である。碑の裏面には代官手代飯岡直蔵(重武)の詠んだ
はてしなく浮世の人にみするかな
那須の野面のほろのいしぶみ
が刻まれてある。名代官山口鉄五郎のいさおしを後の世に遺したのである。
原文は奉書に重厚荘厳な隷書体で一行一三字、一三行に書かれている。
碑は高さ約一・四メートル、幅約七五センチメートル、碑文は楷書で本文一五九文字が刻されている(「碑文」、「前編」参照)。