藩制時代の消防

1409 ~ 1410
大田原の藩制時代の消防については定かではないが、「大田原市史前編」によると、大田原出火の際に駆けつけて消火すべき村方の定め、大和久・刈切・川下等の一二か村は会所につめる定め、荻野目・上深田・下深田・町島・堀米等八か村は荷葉門にはせ集まる定め、領内各村で焼失家屋一〇〇戸におよぶと幕府に届け出る定めや、藩内の六か村に消防組があったこと、一町の組織人員の定員が決められていたことから、当時はある程度の消防組織があって、組織的な消火活動が行われていたことが推定できるのである。
 消火器具については馬連・梯子・鳶口・土佐桶・竹籠に紙を張り、玉墨を塗り、渋を引いたものなどもあった。しかし、実際には満足な消火活動はできなかったので、酒造り・醤油醸造に雇われた人までが、溜桶を持って消火に尽力したということである。
 火災発生時には、城中より町奉行が騎馬で同心を率いてはせつけ、消防夫の指揮をしたのである。
 また、那須地方は冬季から早春にかけては北西の風が強く吹くので、当時の消火器具を用いての消火活動では、延焼する範囲も広くなることから、毎年十一月十五日には消防夫を本陣前に集め、町奉行が点検したり、また町内巡視を行ったりして、火災や盗難に対して厳重に警戒したということである。
 さらに、天明のころ(一七八一~一七八九)、九月以降は夜回り等も行っていたことが記録されている。火に対する警戒心の喚起のための努力がすでに当時からなされていたことがわかるのである。
 「大田原市消防本部沿革」によると、藩制時代の消火活動は、町奉行が指揮をとり、竹竿にボロを結んで水に浸し、叩き消すという方法が取られた。この時に消火活動が優秀であると、その消防夫には米俵を与えるという功労賞のような定めがあったとの伝えが記されている。また、消火器具として、前記の竹竿にボロを結んだもののほかに、ざるに渋紙を張り手桶代用のものや、あおいで消すという直径三~四尺(九〇~一二〇センチメートル)の大うちわ、鳶口梯子等があげられ、それらを使用して勇敢に消火が行われたということだが、消火活動は困難となり、延焼を防ぎきれないことも多かったものと考えられる。

水籠(火消しバケツ)(益子孝治氏提供)