昭和前期の消防

1415 ~ 1417
昭和になって大田原町消防組は新たに部の新設や組織改編を行っている。
同二年に栄町、翌三年には紫塚に部が新設されて一一部となった。
 組頭の田中鉄五郎は消防の鋭意向上発展を図り、副組頭制を設け、星野道二が選任されたのである。
 同二年の野崎村の消防関係の予算には、精勤者賞与費等もみられる。
 同四年、消防組員の任免については、組頭は県警察部長、組員は大田原警察署長が行っている(金田・第一一一)。
 同六年に至り、大田原消防組は大幅な機構改革を行った。従来の一一部を五部制に編成替えをし、全部に手引きガソリンポンプを配備し、腕用ポンプを予備としたのである。組頭川上利一、副組頭伊藤亀一郎が任命された。
 同十年になり、新しく初めて自動車ポンプ一台が購入配備され、一段と機動力を増したのである(「大田原市消防本部沿革」)。
 翌十一年、大田原警察署管内消防組非常動員内規が施行され、戦時体制に突入してゆくのである(金田・第一〇五)。
 同十三年、県令による消防組員年齢制限改正が施行された(金田・第一〇五)。
 同十四年一月、「警防団令」が公布され、同年三月、栃木県令第七号により、「警防団令施行細則」が定められ、警防団が発足することになったのである。警防団の設置については、市町村長から警防団設置の申請を、所轄警察署長を経由して知事に申請し、市町村議会の同意を得た後、県訓令により告示され発足したのである。
 警防団の業務は、従来の平時の水火災消防から戦時体制に入り、防空監視・灯火管制・防毒避難救護・警護等におよぶ広範囲なものとなった。指揮監督は所轄の警察署長が行い、必要な経費は市町村負担とされた。
 同十六年十二月八日、太平洋戦争が勃発し、警防団の活動は急速に戦時体制下におかれていったのである。
 同年、極秘文書として、「栃木県永年防空計画及び昭和十六年度栃木県防空計画」(野崎・第二七)が立てられ、警防団は防空業務に関する色彩を一層強くしていったのである。
 防空施設の強化は一般家庭にもおよび、井戸の新設、古井戸の復活、防火用水池、プール、貯水池、防火用水槽の新設、防空壕、灯火管制の設備等が各所に設けられた。
 こうして警防団は防空・水防・消防・その他の警防業務に従事し、終戦となる同二十年八月十五日まで、その役割は実に大きかったのである。