恤救規則

1502 ~ 1503
明治維新は、新しい文化社会・国家建設への指向であったが、急激な制度の変革は、士族の対国家的騒動をまき起こしたり、土地改革は農民にとっては、依然として高率の小作料であったりしたので、苦しい生活であった。加えて明治初期の全国的な凶作は、一層窮乏化して棄児・離村などがあいつぎ、職のない者・都会に職を求めていくもの等が巷に氾濫する状態であった。
 このような庶民を救済するために、政府は「行旅病人取扱規則」(明治四年(一八七一))、「棄児養育米給与方」(同年)、「多子出産の貧困者へ養米給与方」(同六年(一八七三)、「恤救規則」(同七年)等の貧困者や棄児等の救済規則を制定した。しかし、これらの規則は現在の社会福祉の感覚では了解できない皮相的なものであったのである。これらの中で、「恤救規則」は明治以降における救済制度の中心となったもので、「救護法」(昭和四年)の制定されるまで生きていたのである。
 この規則の趣旨は「人民相互の情誼に因る」として、救済範囲は極めて制限されており、受給者が少なかったようである。
 本県関係では「栃木県統計書」(明治十九年~同二十二年)によれば、明治十五年(一八八二)一三名、翌年一六名、年々増加して同二十年(一八八七)には五七名となっているが、県全体のことであり極めて少ない事を示している。
 本市関係については記録を把握できないので不明であるが、ほとんど該当はないものと思われる。なお、本市域にあった顕著な保護団体には、「盲あ者福祉」があった(「栃木県社会事業史」)。