盲あ者福祉

1503 ~ 1504
明治五年(一八七二)「学制」の施行によって、盲あ者に対しては特殊教育の対象として、その教育の必要性を認め、同八年(一八七五)京都に全国初の盲あ学校が設置され、本県においては同三十八年(一九〇五)宇都宮に私立下野盲唖学校が設置されたのである。
 盲ろう教育の振興を訴えた先駆者の心情を察する意味で、趣意書の一部を記すことにする。
 
「(前略)夫レ盲者ハ目ニ盲セリト雖モ心ニ盲セルハ非サルナリ唖者ハ語ル能ハサルモ意志ナキニ非ルナリ若シ能ク之ヲ教ヘ之ヲ導カハ知能ヲ景発シ固陋ヲ脱シ適当ナル生業ヲ修ムルコトヲ得ベシ…(中略)其ノ子弟ニ対スル至情至愛ノ道ニシテ(以下略)」

(「栃木県社会事業史」)

とあり、人道的見地から盲あ者の教育とその自立を切望している。
 大田原においても、同四十五年四月「大田原鍼灸按学校」・「那須訓盲院」が設立されたのである。その概要については次のとおりである。
 
 ○大田原鍼灸按学校
大田原では、明治四十五年四月、松本兼吉らが発起人となって講習所を開設、当時、上町にあった岡医院(場所不明)の一部を借りて教室とし生徒六名を収容した。これが後大田原医師会の援助を受けて、大田原鍼灸学校となった。直接学校の世話に当ったのは最初は岡医師で、次いで医師田崎良、次に医師塩入儀内であった。昭和二年、塩入医師が郷里長野県に引き揚げるに及んで、学校を閉鎖するのやむなきにいたった。この学校の教員には、藤田新一郎(業者)・上野証空(東京盲学校師範科鍼灸按科卒業)等がいた。
 ○那須訓盲院
大田原鍼灸按学校が閉鎖された後、以前から塩入医師の希望もあって、大田原市河原町(中田原)五九五番地居住の業者山田武が自宅で徒弟の教育を始めた。生徒は四名であった。これが那須訓盲院で、昭和六年まで続いて閉鎖された。

(「栃木県社会事業史」)

 明治から大正にかけての盲ろうあ者への福祉は、主として個人の善意や仲間同志の努力によって維持されていたのである。