野崎と公益質屋

1508 ~ 1508
第一次世界大戦後の大正から昭和にかけての不況の波は全国に及び、悲惨な生活は、農村において特に深刻であった。農作物の価格下落によって収入が減少し、失業者は都会から農村へもどり、ますます家計を圧迫した。町村支弁の職員の給与不払いもこのころであったのである。
 借金を抱えた農民の貧窮は極度に達し、義務教育終了前の子供を奉公にだして、飢えをしのぐ状態であった。
 野崎村では、村民の八割が質屋を利用していたと推定されており、農業者の半数が飯米の持ち合せのない状況であったので、利用者は多く年間に二、〇〇〇件を超すほどであったという。昭和十四年村議会で利用者が少なくなったため閉鎖論が論議され、その後まもなく廃止された。そのころ大田原町・矢板町等にも公益質屋が設置されていたのである。
 同十四年前後における状況は、次の第1・2表のとおりである。
第1表 公益質屋設置状況
市町村名質屋名開始年月日職員数貸付資金貸付利率貸付制限額流質期限備考
一口一世帯
野崎村野崎村公益質屋昭八・三・二一四、〇〇〇〇・〇一二五一〇五〇四ケ月
大田原町大田原町公益質屋昭一〇・一・二一六、三〇四〇・〇一二五二〇一〇〇四ケ月延長可能生業資金ノ貸付ヲモ行フ
(「栃木県社会事業史」)

第2表 公益質屋事業成績(昭和一五年度)
市町村名貸付状況弁済状況
口数金額一口平均口数金額利子収入
円  銭円  銭円  銭
野崎村一、三二六八、〇六八・二九六・〇八一、五七五九、四三九・六〇四〇一・九二
大田原町五、一九八四二、〇四九・六〇八・〇八五、四五三四〇、九二四・二〇二、一五四・九二
 
市町村名流質状況流出物処分状況流出物処分収入質置主へ返還額貸付金年度末現在高
口数金額口数金額
円  銭円  銭円  銭円  銭
野崎村三五二三二・七五一三一二一・五八一二七・九八二、三〇七・五〇
大田原町一四、一八五・一五
(「栃木県社会事業史」)

 大田原公益質店は、戦後の昭和三十年代まで続き、庶民の融資に貢献してきたが、経済生活が安定し、物資流通・販売方法などが変化するにしたがって利用者も年々減少しており、赤字経営となってきた。この傾向は全国的であって、運営の改善が叫ばれてきたが、同三十九年には、年間利用者六八名と激減し、貸付金額八万円となり閉店することになったのである。その利用状況は第3表のとおりである。
第3表 公益質店の利用状況
年次利用者数貸付金額弁済金額利子収入
昭和33年1,312928,200908,790148,352
〃341,099869,500877,950157,181
〃35805661,930658,700127,916
〃36793786,700818,050149,502
〃37653687,120761,73074,610
〃398680,400
(「大田原市事務報告書」)